うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

人流抑制策には重大な問題がある。

政府・行政はコロナ感染対策として人流抑制策を採っている。おそらく専門家の提言に基づくものだろう。人流を抑制すれば結果的に感染が抑制されるかもしれないが、感染抑制は「人と人との接触機会を減らす」(link)ことによって実現できるもので、接触削減と人流抑制はイコールではない。接触とはコチラでは「一人の人が相手と1m以内の距離で2~3往復の会話をしたら、1接触と数える」などと説明されているように、近距離での会話等をすることだ。換気が充分な環境で、正しくマスクを装着し、さらに会話もしていない場合、飛沫感染やマイクロ飛沫感染のリスクはほとんどないものと僕は考えている。広域での移動についても、マスクをして、黙って、単独で移動することは問題ないと考えている。

人流抑制策には重大な問題がある。人が動くことで結果的に接触機会が増えることを前提にしている。要するに「人が動けばどうせ不注意な接触をしてしまうに決まっている」との性悪説に基づいて行動の抑制を強制している。強制は自発性を奪う。他人に行動自体を抑制されるということは、どう行動をすれば良いのか、自分の頭で考え自発的に行動する機会を奪っているということだ。

そして他人を「どうせ」扱いするということは、その人を見下していることだ。政府・行政の人流抑制策は、国民・市民を見下している。その「見下され感」が僕にはたまらなく不愉快だ。それを生んだのは人流抑制策だ。人流抑制策はそれ自体の問題性によって、すでに効果的なコロナ対策ではなくなっているのではないか。

性悪説ではなく性善説、国民・市民と同じ平場に立ち、信頼に基づくコロナ対策に大転換することを提言したい。国民・市民のひとりひとりが、どんな行動がリスクが高いのかを自分で考え、低リスクの行動を自主的にとることができるよう、最新の科学的知見に基づいた情報開示・情報提供を徹底的に行うことだ。ひとりひとりが自発的な対策をとることで、他人まかせではない意識づけの徹底をはかることもできる。変異ウィルスに対しては、マイクロ飛沫感染エアロゾル感染への対策を徹底することが重要ではないかと個人的には思う。マスクの着用はもちろん、換気の徹底が重要なのではないか、といったように、ひとりひとりが有効な対策を考え、実行していく。

そうすれば、居酒屋の通常営業も可能になるはずだ。しぶしぶ従うのではなく自らの意志で行動することは、僕らの気分を前向きにし、免疫力の向上にもつながるのではないだろうか。

以下追記。

コロナ対策の自発性については、劇場での公演等を参考にした。今どきの公演は、演者も観客もマジ本気だ。感染しない・させない自覚と努力はハンパない。皆が、皆のために、進んで対策を徹底的にとっている。自分が大好きなこの空間、この時間、この文化を守り抜くために。演者は来てくれた観客のため全身全霊でパフォーマンスをし、観客もそれに応える。いまこそ自分が大好きなものを守らなくてはならない。

さらに追記。

この国は1945年、アメリカとの本土決戦準備を進めていた。実際に本土決戦が行われたかどうか僕は怪しいと思っているが(詳細は拙著『終戦史 なぜ決断できなかったのか』(NHK出版、2013年)をご覧いただきたい)、本土決戦は「国体>国民」の発想に基づいていた。国民がいなくなれば国体も何もないと思うんだが、当時は国体(定義はここでは詳述しない)が何よりも大事だった。…これと同じことが、いま、この国で再現されているのではないか。国民や県民や都民のためにあるべき国政や県政や都政が、それを運営する為政者や官僚によって私物化され、国政や県政や都政がファーストになり、国民や県民や都民がそれに尽くすべき存在とみなされ、憲法で定められた基本的人権が踏みにじられる構造になっているのではあるまいか。

以上、殴り書きで詳細精査してないまま公開することをお許しいただきたい。僕の心がそう主張している。

さらにさらに追記。

東京五輪・パラ開催の目的について日本国の首相は「希望と勇気を世界中に」と言ったそうだが、ならば日本国内で苦しんでる飲食業等の経営者や従業員にも希望と勇気を。つーか国民に希望と勇気を届けてからの世界だろ。何で俺ら苦しみながら他人の栄光見ることになるの。といった内容をツイートした。

さらにさらにさらに追記。

新聞投書1「高校生活はたった3年です。〔略〕そのことを「自分事」として考え、中止しないという選択ができる学校がどれくらいあるのか、今、とても気になります。〔略〕生徒の短い高校生活を守るために、真剣に、五輪と同じ熱量で考えてくれる人はどこかにいないのでしょうか。」

新聞投書2「〔略〕小さな店を夫婦で始めて21年になる。〔略〕私たちはいったい何のためにこれほどの犠牲を払い、我慢しているのか。子どもたちの楽しみや庶民の娯楽を奪っておきながら、五輪だけは開催するという「ちぐはぐ感」。政府には一日も早く、物事の道理を取り戻してほしい。」

多くの国民・市民が、多かれ少なかれ、こうした感情を抱いているのではと思う。つまり、政府・行政は、国民・市民ひとりひとりのささやかな幸せの実現は追い求めないのに、国家的イベント実施は追い求めるという現実。

僕はそれを決して許すことができない。コロナでわかった現実。