日本国憲法の第1章第1条には、
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
と定められている。天皇は、「日本国」と「日本国民統合」の象徴だということになっている。象徴とは、ある辞書によれば「抽象的な思想・観念・事物などを、具体的な事物によって理解しやすい形で表すこと」ということらしいから、「日本国」と「日本国民統合」を具体的に理解しやすい形で表したのが天皇ということになる。「日本国」は抽象的なものだとは思わないし、僕ら別に「統合」してなくてもいいんじゃね・日本国民統合をデフォルトとしてるの変じゃねと思ったりもするが話を続ける。
即位後初めての記者会見で天皇陛下は、「象徴としての責務を果たすべくなお一層努めてまいりたいと思っております」と述べられたというのだが、象徴としての責務というのは、果して何だろうか。「日本国」と「日本国民統合」の象徴としての「あるべき姿」があり、それを表す責務があるということなのだろうか。
たとえば、もし僕ら日本国民がモンテネグロ人のように怠惰な国民だった場合、天皇はその象徴として、日がな一日のんべんだらりと過ごすのだろうか。と考えていくと、天皇がそんなだらしない日々を過ごさないということは、「あるべき日本人の姿」というモデルがあり、天皇はそのためにご自分を厳しく律して、あるべき姿を表しつづけているということなのだろうか。
「あるべき日本人像」とは、私見によれば昭和初期に作り上げられたもので、いまだに僕らの根っこにあって、僕らの言動を規制している存在だと思っているのだが、象徴としての天皇がこの先もずっと、日本人があるべきモデル像を表し続けるとなると、僕らはその呪縛からいつまで経っても解放されないんじゃないかという疑念。
天皇が「象徴としての責務」から解き放たれたとき、僕らも「あるべき日本人像」から解き放たれるのではないかと考えると、「象徴としての責務」の持つ意味は大変に重く、これは天皇ひとりの問題ではなく「主権の存する日本国民」が自らの問題として考えていかなければいけない問題なのではないだろうか。
以下追伸。
日本人像が、元来の(デフォルトの)日本人の姿なのか、それとも目指すべき姿なのか、という問題は、日本人像が形成された昭和初期にも議論されたもので、当時は、一方では流行した左傾思想への対策、もう一方では満洲事変後の国際情勢への対応といういわば国家的要請によって、目指すべき姿イコール日本人像となり、それがそのまま今日にまで続いている。
「ありのままの姿見せるのよ/ありのままの自分になるの」と叫ばなきゃいけないのは、理想の日本人像に囚われて窒息しそうになっている僕ら自身ではないのかという問題と、「象徴としての責務」という問題が、根っこでつながっているのではないかという問題提起でした。