うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

信頼ベースのコロナ対策で東京五輪開催を

 いま政府・各自治体がとっている人流抑制を基本としたコロナ対策には、発想の根幹において致命的な問題がある。人々が外出することで会食や飲酒などの感染機会が増えるという理由で外出そのものを抑制するわけだが、そこには「人々は外出したらどうせ我慢できずに羽目を外す」という、国民・市民を節度に欠ける人の群れとみなす考え方がある。私たちを動物実験のネズミのように見下しているようで、「こころ」がなおざりにされていると感じるのだ。人を見下した対策は、それがたとえ効果的なものであれ行うべきではない。それに多くの人々は人流抑制策の底流にある「不信」を嗅ぎとり、政府・各自治体に対し「不信」の眼を向けているように感じる。こうした不信連鎖のいま、人流抑制策は影響の甚大さに比して効果の低いものになっているのではないか。
 先日とあるコンサートに足を運んだ。集まった観客と演者は皆できる感染対策はすべて行い、愛するこの空間、この時間、この文化を全力で守っているように感じたし、演じる喜びにあふれた全身全霊のパフォーマンスに心を動かされた。私たちはこの一年以上コロナと向き合い続け、充分に学んできた。私たちは私たちをおとしめるコロナ対策に疲れ、胸を張って過ごすのが困難な状況にある。オリンピック・パラリンピックという世界中のアスリートたちのひのき舞台を私たちが祝福するにはまず、私たち自身が、これまでのコロナ対策で失われた誇りと自発性を取り戻す必要がある。
 もちろん感染防止の基本対策は今後も徹底する必要があるが、それに加え、私たちひとりひとりが低リスクの行動を人まかせでなく自発的にとることができるよう、最新の知見に基づいた情報提供を徹底的に行ってほしい。そして飲食従事者を含め国民全員が希望と勇気を持てる、相互信頼をベースとしたコロナ対策での東京五輪開催を望みたい。

※2021-06-17 08:26、朝日新聞「声」に一昨日メールで投稿したが不採用のようでこちらに掲載した。