うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

森喜朗発言の本質は日本社会の根本的な問題そのもの。

「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかる」「みんなわきまえておられて」という森喜朗氏の発言だが、これは日本の社会や組織の特質や問題に関連している。

長老(男性の高齢者)が権力の頂点に立つピラミッド構造。会議の本質、問題や決めるべきことより、皆が長老を向いてシャンシャンと話を進めることを優先させるという本末転倒な目的意識。

最高の結果を目指すのではなく、長老にお喜びいただくことを優先させる社会。

なぜ日本社会がこうした構造になったのか、雑な推測だが、明治以降の近代化の過程で、村の自治組織のあり方が天皇制とつながって日本社会全体に拡大してしまったのではないか。敗戦でその構造が壊れるかと思いきや、天皇制は温存されて社会構造は大きく変わらず、さらに高度経済成長という状況下で「何も考えずがむしゃらに頑張ってさえいれば幸せになれる」という妙な自信が根付き、さらに強固なピラミッド構造化し、バブル後も生き残って今に至る。

女性蔑視というよりも、男性>女性、高齢>若齢というヒエラルキー社会を無自覚に全肯定した思考そのものが世界中の批判を浴びたのであって、それを変えるのであれば日本社会が根本から変わらなくてはならない。高齢男性は若齢女性をリスペクトし、若齢女性がその才能を充分に発揮できるような社会にならないと。

たとえば、広瀬すずちゃんが総理大臣になるぐらいの社会に。

なぜ一枚岩が好きか。それは僕らが実はバラバラだから。

昨日、電車に乗って都心に出たら、車内が静まり返っていることに驚いた。

去年クリスマスの日、僕は、

久しぶりに電車でイヤホン、音楽聴いてる。コロナ以来、人のおしゃべりが消えたので聴く必要なかったのですが、最近しゃべる人が増えた。[link]

と書いたが、わずか10日ほどで民心が一変した。緊急事態宣言のニュースが人々の意識を変えたのだろう。

「コロナ疲れ」という表現があるが、実態にそぐわないと僕は思う。人々は疲れているのではなくて飽きている。特高月報を読むと、太平洋戦争時の人々の労働意欲が緒戦の3ヶ月しかもたなかったことがわかる。僕らは本来、とても飽きっぽくて粘り弱い。今回も、僕らが飽きない1~2ヵ月の間にどれだけ実効性の高い対策で感染者数を大きく減少させられるかが重要になってくると思うが、ここでそんなことを書いても仕方がない。

こういうとき、よく言われるのが「みんなで一丸となってがんばろう」といった一枚岩的提言だ。東日本大震災のときもしきりに言われた記憶がある。

でも勘違いしないほうがいい。僕らは決して一枚岩などではない。むしろ個々人がバラバラになっているのが日本社会の特徴だと僕は思っている。それはこの国も明治以来の近代化の歴史が大きく関係している。

コロナ対策も、人々がバラバラな状態をデフォルトととらえて考えたほうがいい。バラバラだから、すぐに崩れる。あるいは流される。人々の心に届く強いメッセージがあれば、民心はがらりと動くように思うんだが、問題は政府、首相にメッセージを出す能力がないことだなあ。

やっぱりコロナは人災だ。

「コロナ維新」への期待。

公共空間で喋りを止めない大半が「いい大人」であり、子ども・若者にとっていい迷惑だ。行動変容すべきは首相を筆頭にした「いい大人」たち。

ツイッターに書いた

別の言い方をすると、新しい事態に対応できない大人世代と、対応できている若者世代。これって明治維新と同じじゃね?

ってことで、国民に訴えかける言葉を持たない現首相以下(名前も書きたくない)、古い時代の「長老」たちは一線退いてもらい、新しい時代は若い世代に回してもらおう。

※長老:日本は昭和初期以来、天皇を頂点とするピラミッド構造の社会だった。「上」が絶対的な権力を持つ「長老社会」だった。そのルーツはおそらく農村社会、村の長老を尊重する社会だったかと。今でも、「年配」の「男性」が絶対的に威張る構造は変わっていない。その構造の上位にいるのが、「年配」の「男性」が圧倒的に多く、かつ、権力や金を持った国会議員たちだ。彼らが国民に奉仕する気などないことは、国民に自粛を求める会食を彼ら自身が行っていることからもわかる。彼らはピラミッドの上位(最上位は天皇)にいる権力者なのであって、彼らにしてみれば、下々の民が彼らに尽くすべきだと心の中で思っているのだ。しかし彼らにはこの難局を乗り切る能力も根性も何もないことが次第にわかってきた。このままでは僕ら下々の民は彼らと共に沈没してしまう。ピラミッド社会はもはや有効に作用しない。

この国のデフォルト

コロナ禍は、日本という国の「デフォルト」の姿を浮かび上がらせたような気がする。たとえば、女性子供の自殺が大幅に増加したというニュースがある。細かいことはさておき、「おんな子ども」が自殺するということは、この国の社会的弱者が「おんな子ども」であり、かつ、「おんな子ども」にコロナ禍のしわ寄せがいっているとみることができるのではないか。ということは、いまだに、この国の社会的強者が「年配」の「男性」であり、年齢と性別によるピラミッド構造が強固に存在するということになる。「年配」の「男性」が最も多く生息するのは、大企業、官僚、そして、国会議員、政治家、閣僚、総理大臣ではないか。

「年配」の「男性」が社会を支配する構造はこの国に限った話ではないが、どうもこの国はその傾向が顕著、かつ、強固に存在するように感じる。そしてそれはこの国の国民性とかに依るものではなく、この国の近代化の歴史に起因するように思う。

戦時中の戦意高揚は失敗だった説

朝ドラ「エール」で描く戦時中の「戦意高揚」について。

当時の「特高月報」を見る限り、国民に対する政府や軍の戦意高揚策はうまくいっていない。工場労働者のやる気がさっぱり上がらないことをボヤいている。「特攻」や「玉砕」に戦意高揚の面があったことも記しておきたい。

いっぽう、終戦間際に在欧の外交官や駐在武官から日本に送られた電報には、現地の新聞報道などをもとに「こちらでは日本国民はまだまだやる気と思われている」などといったことが書かれている。アメリカなども日本国民の「やる気」を過剰に見積もっていたかと。終戦前後のリポートには何て書いてあったかな、そこそこのやる気だったってことじゃなかったかな。

著名なある日本人は戦後GHQの聴取に対し国民一人一人の自発的な努力が足りなかったみたいなことを言っている。上から強制されただけでは本当の戦意高揚には及ばない。

結果的に戦意高揚策は失敗したと僕は思っている。当時の国民全体はそれほど政府に従順ではなかった。むしろ国民の厳しい目を気にしてホントのことが言えなかった大本営発表という面もあると思っている。

あと特高の描き方がいつも問題だと思う。終戦間際の特高が思想弾圧に奔走してたという確かな史料があれば別だけど。

以上、史料を何も参照せずに書きましたので誤りがあったらゴメンナサイ。

自主的思考の敗北

75年前、この国では自主的思考が敗北し、一億玉砕などというゴマカシフレーズのもと一億思考停止に陥った。

あ、一億玉砕なんて単なる心意気表明ですからね。これを持ち出して当時の軍部が狂気だったとかは歴史的事実に反します。

あれから75年後の今年、コロナ禍の日本では、自主的思考が芽生えるかとの期待もあったけど、結局、世間の目などという空気の前に自粛の嵐で一億思考停止に陥った。

何も変わらない。言論は無力だ。

平和が大事だというのなら、まず、自主的思考を尊重する社会にならないと。こんなふうに簡単に一億思考停止に陥る社会には、戦争を止める力はない。

政府を批判しつつ政府に依存する構造

政府の対応が場当たり的でその場しのぎだと批判するが、私には、政府を批判する報道番組も相当に場当たり的であるように見えた。政府批判をしつつ政府に依存し、問題の解決を政府に委ね、できなければ政府の責任を問うというこの構造は、今日の情報化社会のデモクラシーの姿そのものである。(朝日新聞2020年3月31日朝刊15面:佐伯啓思「現代文明かくも脆弱」)

ぼくには、75年前の敗戦時から何も変わってないようにも思う。