朝ドラ(連続テレビ小説)「カーネーション」の再放送をNHK BSで毎朝見ている。今日は昭和20年8月15日の終戦の回だった。戦時下、とりわけ太平洋戦争下での出征や国防婦人会、それに空襲の描写は朝ドラの定番とも言え、手を変え品を変え何度も見させられているのだが、「カーネーション」での戦時下描写を見ながら思った。
敗戦は戦後日本人最大のトラウマなのだ。そして僕ら日本人は昭和20年の敗戦を未だに克服できていない気がする。
今回は、何故あのような事態に立ち入るに至ったかを、田島道治の史料「昭和天皇拝謁記」を出発点に考えてみた。
こちらで書いたが、『「昭和天皇拝謁記」を読む─象徴天皇制への道』(岩波書店、共著)で私は、「拝謁記」はあたかも「諫言記」のような内容だと書いた。諫言とはgoo辞書によれば「目上の人の過失などを指摘して忠告すること」だ。田島長官が昭和天皇に対し実にさまざまな諫言を行っていたことは「拝謁記」で明白なのだが、ではなぜ田島長官は昭和天皇にそこまで諫言を繰り返したのだろうか。昭和天皇の言動が過失だらけだったからではない。昭和天皇が「頑固一徹」な性格だったからだ。昭和天皇は近衛文麿のことを「近衛はよく話すけれどもあてにならず、〔略〕直きにその考へも変る」(『昭和天皇拝謁記第3巻』p221、1952年5月28日条)と批判的に語っており、近衛とは対照的な性格なのだ。
昭和天皇が頑固一徹だったことは、さまざまな政治勢力に振り回されなかったという面があったように思う。政治勢力にとって昭和天皇は担ぎにくい天皇だったはずで、特定の政治勢力が昭和天皇を担いで国政を牛耳るということにはならなかった。そしてそれは「昭和天皇=ロボット」説も否定することになる。
反面、思考の柔軟さに欠ける昭和天皇が君主であったことが戦争終結を遅らせた要因となったのではないか。『「昭和天皇拝謁記」を読む』160~161頁あたりで書いたが、ドイツと結んだ条約の信義を重んじたために終戦が遅くなったと昭和天皇は田島に語っているし、また「一撃講和」に固執したきらいがあった。こちらで書いたように、昭和19年6月のマリアナ敗戦、サイパン陥落以降は勝ち目のない戦いだったにもかかわらず戦争を継続させたことが多くの犠牲者を出すことにつながったのであり、ここで昭和天皇の「頑固一徹」は明らかにマイナスに作用したと筆者は考えている。
さらに言えば、この時の昭和天皇にきっぱりと諫言をして戦争継続を断念させた者がいなかったこと、そしてそれはとどのつまり、自由闊達な意見表明を封じた当時の日本社会の硬直さ、上意下達的な風土が、一撃講和への固執という「思考停止」、そして多くの犠牲者を出した主因だったのではなかったか。
当時の日本は「総力戦」を戦っていた。第一次世界大戦の教訓として「銃後」の重要性がわかっていたからこその思想統制だったわけだが、結局のところは「総力戦」の戦い方を間違えたのではなかったか。「皆で知恵を振り絞る」べきところを逆に「御意」と考えることを投げ出してしまった面があるのではないか。