うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

「日本軍の呪縛」からいい加減に解放されたい日本社会(追記あり)

日本社会が軍隊を通じて近代化されたことについては吉田裕『日本の軍隊』(岩波書店2002年)に詳しい。1945年の敗戦まで、日本社会は軍隊によって規律化されてきた。

敗戦後、軍に対する国民感情が一変し、尊敬から侮蔑(というのはちょっと言いすぎか)へと変わったものの、国民に根づいた軍隊規律は変わらなかった。というか、学校教育現場での「シゴキ」に代表されるように、むしろより強化されたフシもある。

いまだにそれが日本社会全体に根づいていることが、今回の東京オリンピックでもよくわかった。メダルをとったアスリートへの賞賛が、次第に「よく頑張った」賞賛へと収斂していくのは、少なくともテレビのスタジオでのキャスターやコメンテーターらのトークの決まりパターンだ。過酷な練習を耐え抜いて、だとか、長時間労働を褒めたたえる方向にいく。特に年寄り層。

それは負けた日本軍の呪縛です。

追記。

1.戦争経験を語り継ぐのも大切だと思うが、自身に根づいた軍隊規律に自覚的になるほうがもっと大切だと思う。まさにそれこそ(自主的思考の放棄)が、「ダメだダメだ」と嫌がる戦争への道を手繰り寄せることになるのではないか。

2.「がんばればきっといいことが」的な言説がこれまで日本社会で通用してきたのは、結局のところ1945年の敗戦を心のなかで認められないからではないか。それまで、具体的には1931年の満州事変からなのかそれとも1938年頃からの日中戦争泥沼化からなのかはともかく、日本社会では(おそらく日本軍も)組織に忠実に、上の言うことに従い、自主的思考をしないロボット的人間になることを求められてきた。その結果が若者の特攻死であり空襲による被害だ。もっと各人が自主的思考に努めて発言し行動すれば良かったのだ。というとすぐに特高の話を持ち出されたりするが実際には隣組的自主規制、「自粛警察」が人々の行動を委縮させていた主体だ。その結果負けたことを受け容れられない。しかも戦後高度成長下では思考停止でも毎年給料がアップするうれしい事態になり、心のなかで、もう考えなくてもいいのだと結論づけてしまったのではないか。僕はそれを「がんばり幻想の維持」と呼ぶ。