うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

昭和18年。

80年前の昭和16年12月に始まった太平洋戦争(呼称についての議論は省略)についての私的見取り図を資料を何も見ずにとりあえず書いてみる。

当時、国際情勢とともに見通しがつかなかった要素は軍事技術開発。第一次世界大戦の教訓の一つとして、戦争は軍事技術の開発速度を飛躍的に高めるということがあった。じっさい、アメリカは戦争中に原爆を開発、それが日本降伏の大きな要因のひとつとなったから、この要素が勝敗に及ぼす影響はかなり大きい。たとえばもし、昭和18年に「富嶽」による米本土爆撃が実現していたら、どうなっただろう。

真珠湾攻撃を立案・実行した山本五十六は、開戦前、一年そこらは暴れてみせる(←不正確)と言った。これは手持ちの通常兵器による通常戦法でということだ。山本はミッドウェーの後、技術将校らに新兵器開発を頼んだという。二方面作戦を行える国力、軍事力を持つアメリカにどう立ち向かうか、山本は新兵器開発こそが最大のポイントだと思っていたのだろう。

さて昭和18年。日本軍はガダルカナル島を撤退、戦況は悪化。ドイツも危うい。日本の指導者達が戦争終結を模索し始めた時期と思っている。この現状でどんな手が打てるか。昭和天皇が海軍に対し対米決戦を何度も促したのは、いわゆる一撃講和を狙ったからではないか。そして新兵器。戦場で、もしくは米本土で、アメリカの継戦意欲を挫かせるような新兵器が開発できればとの期待。

いっぽうこの時はのちの「特攻」の萌芽が芽生える時期。特攻の意味は2つある。通常兵器の通常戦法でもない、画期的新兵器開発でもない、アメリカの継戦意欲を挫かせる第三の道=自殺攻撃。そして、それによる国民の継戦意欲の昂揚。後者は特攻を語る上で欠かせない点だが軽視されることが多いように思う。

なぜ特攻が生まれ、最後には全軍特攻などという事態になったか。それはとどのつまり、戦争が続いたから。昭和19年6月のマリアナ沖敗戦で日本軍の敗北は決定したから、戦争をそこで終わりにすれば良かったのに、当時の日本は戦争を継続した。できない戦争を続けたことが特攻を生んだ根本原因であり、特攻を推進した黒島らに責任転嫁をするのではなく、当時の為政者の判断ミス、もしくは無策を責めるべきだろう。

という点から考えると、昭和18年が太平洋戦争の大きな分かれ目ではなかったか。