うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

「最後まで諦めない」と、いつまで言い続ければいいのだろうか。

「最後まで諦めない」は、賞賛されるフレーズだ。多くの人は、このフレーズが賞賛されることに疑いを持っていないだろう。教育現場においても、こどもたちがこうした姿勢で勉学その他に取り組むことを勧めている。

かつて太平洋戦争において、日本は「最後まで諦めない」姿勢を貫き、そしてボロ負けした。戦場では、「最後まで諦めない」軍隊が玉砕した。銃後の市民生活は、空襲によって焼け跡になった。多くの犠牲者が出た。あのときの「最後まで諦めない」姿勢は、賞賛されるべきものではない。もっと早くに戦争を終わらせていれば、日本軍が、日本政府が白旗をあげていれば、空襲も沖縄戦も原爆投下もソ連参戦もなかったかもしれない。死者の数はこれらに集中しているから、となると、多くの命が助かったはずだ。「最後まで諦めない」ことによって、多くの命が失われた。

「最後まで諦めない」は、絶対的な美徳ではない。時と場合により美徳となる。なのにこの国では、やたらと「最後まで諦めない」を押しつけたがる。

思うのだが、それは、太平洋戦争末期に「最後まで諦めない」態度が招いた犠牲に、この国は、向き合いたくないのではないか。そして、「最後まで諦めない態度を戦後焼け野原以後もつらぬいたお蔭で日本は奇跡の高度経済成長を達成した」というサクセスストーリーに話を入れ替えて自己満足したいのではないか。

日本が戦後高度経済成長を達成したのは奇跡でも何でもないことはすでに歴史経済学では自明の理だし、人々が最後まで諦めずに奮闘したから高度経済成長が実現したわけでもない。いや、昭和20年のボロ負け→アメリカに都合のよい新日本再建、の先に吉田茂が進めた経済優先路線があり、それが結果的に高度経済成長につながったわけだから、ボロ負けが高度経済成長を生んだと言えなくはないから、最後まで諦めないことで「結果的に」豊かな社会を実現できた、とはいえるかもしれないが。

「最後まで諦めない姿勢を美徳とする日本社会の風潮」には、こうした欺瞞が潜んでいる。最後まで諦めなかったことで日本史上最大の犠牲と、日本史上唯一の敗戦(そして主権の喪失)という事態を招いたことを、この国はいまだに克服できていない。その意味で、「戦後」はいまだに続いている。

「最後まで諦めない至上主義」という膠着状態から解き放たれなければ、この国に進歩はない。未来もない。