うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

努力は必ず報われる、わけないじゃん。

明日で終わるNHKの朝ドラ「なつぞら」は「すずちゃん好き」の僕としては毎朝欠かせないものだったが、ひとつ、気に入らないところがある。

「努力は必ず報われる」といったような美徳を吹聴していることだ。あと、「漫画映画」の制作に長時間労働を良しとするような描写もいただけなかった。

描いている時代が時代だから、仕方がないのかもしれないが。

「努力は必ず報われる」という考え方は、当然、「努力することは良いこと」をベースにしている。まあ、努力するのは悪いことではないから、それはいい。

が、この場合の「努力」とは、「我慢」や「忍耐」をともなう努力のことを指しているのが、気にいらない。これは要するに、「我慢」や「忍耐」を美徳とし、強要する考え方だ。

では、この日本において、こうした考え方が出てきたのはいつで、何故なのか。

それは、昭和以降で、「日本人というアイデンティティ」が問われた時期、そして、「大衆」が生まれた時期。一般大衆に刷り込む美徳としての「我慢」や「忍耐」。同時に、進行する日本と世界との対立、孤立化そして軍国主義化を進める日本において、「困難に耐える国民」が必要だった。

そして、国民がその見返りを得たのは、戦後の高度経済成長期だ。戦争という困難に耐えた見返りとして、戦後の繁栄、豊かな暮らしを手に入れることができた、というのが、この時代を生きた日本の多くの大衆の実感だったのではないか。

そこから、「我慢や忍耐は素晴らしい」という「庶民の経験則」が生まれ、子どもたちに受け継がれるようになるのだが、これはあくまでも一回こっきりの経験則で、受け継がれた子どもたちも同じような恩恵を受けられるとは限らない。というか、この経験則じたいが間違っているので(戦争に耐えたから豊かになったわけではない)、「努力は必ず報われる」は普遍性のあるセオリーにはならない。

このセオリーが恐ろしいのは、耐える、つまり、自分を殺すことを是とする社会通念がいまだに大手を振って闊歩していることだ。戦後まもなく、GHQが植えつけようとした「柔教育」は否定され、力づくの教育が復活し、日本社会は人々の自発性を奪った。

努力は本来、好きで努力すればいいことだ。やりたくなきゃ、やらなければいいだけのことだ。

「努力する姿を誰かがきっと見ている」っていうけど、そんなことはない。人前で努力するのが嫌いな僕の努力など、誰も見ていないし、そもそも、努力というのは人に見せるものじゃない。

…とか何とか書いたんですが、このところ、僕がいちばん思うのは、こうした考え方が刷り込まれるよりも前、昭和時代以前に人格形成を終えた世代が持つ「教養主義」を、僕が体で理解できていないことがくやしい。良いものに触れて、良い人と出会って、そこから生まれる全人格的な教養人の深さ、といったものは、こうした忍耐至上主義では決して生まれないものだと思うのだ。