うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

ぼーっとすることが、日本社会を良くする(仮説)

近現代の日本社会は、他律性・受動性を基本に成り立っている。「頑張る」に象徴される、不断の努力を求められるが、何をどう頑張るかについての自律性・能動性は求められない。むしろ、所属する社会や集団、とりわけ、「上の者」の言うことに、無批判に従うことが、良しとされている。

余計なことを考えるな、俺の言う通りにしていればいい。

という、先生やら監督やら上司やらに従順に従うことが、この社会で評価される「頑張り」であった。

「頑張る」とは、「考えない」ことでもあった。

その連鎖が、日本社会を綿々と動かしてきた。

なにか問題が生じても、自力で解決するのではなく、見て見ぬふりをして、問題を先送りにすることが、日本社会の多くの集団のなかで、ごく普通に行われてきたことは、この社会で暮らす日本人のおそらく全員が知っていることだと思う。

このシステムは、近現代の日本において、ほんの一瞬だけ、有効に作用した。1970年代を中心とする、高度経済成長末期からの、日本経済が最強だった時代だ。

バブルがはじけて以後、その有効性は失われた。一様性は脆い。

自主的思考が不十分だった日本人は、太平洋戦争で死の一歩手前まで追いつめられた」わけですが、自主的思考が不十分だった時代は、戦後も続きました。「奇跡」と自画自賛した高度経済成長という成功神話が、それを支えたのです。

そして今でも、自主的思考を阻む価値観が、この日本社会には蔓延しています。

これからを生き延びていくためには、自主的思考が必要です。

そのためには、「ぼーっとすること」が、何よりも大事なのではないかと思います。

ぼーっとしていると、いろんな思考があちこちから去来してきます。無思考のようでいて、じつは脳はいろんなことを考えています。他からの入力データに頼らず、自分の脳にあるデータだけで、さまざまなことを考え、判断しています。こうして、自主的思考が行われるのではないかと思います。

そう考えていくと、いわゆる「引きこもり」には、この社会を変えていく潜在力があるのではないかと思います。

ただ、引きこもってネット社会にハマっているのであれば、それは他律性・受動性の渦のなかでもみくちゃにされていることになるので、逆に日本社会の悪しき典型みたいな姿になってしまうリスクもあります。

ネット社会から距離を置いて、ぼーっとしてみませんか。

 

追記。朝日新聞2019.1.11朝刊p15「異論のススメ」佐伯啓思氏の「平成の30年を振り返る~失敗重ねた「改革狂の時代」」抜粋以下。

元号が昭和から平成に替わったこと、私は在外研究で英国に滞在していた。日本経済はまだ「向かうところ敵なし」の状態で、英国経済の再生の実感はなく、サッチャー首相の評判はすこぶる悪かった。〔略〕日本人の研究者やビジネスマンたちが集うとよく日英比較論になった。ほとんどのビジネスマンは、日本経済の磐石さを強調し、この世界史の大混乱のなかで、経済は日本の一人勝ちになるといっていた。だが私はかなり違う感想をもっていた。日本経済がほとんど一人勝ちに見え、日本人がさして根拠のない自信過剰になる、そのことこそが日本を凋落させる、と思っていた。〔略〕確かに、英国経済の非効率は生活の不便さからも十分に実感できた。しかし、その不便さを楽しむかのように、平穏な日常生活や、ささやかな社交の時間を守ろうとするこの国の人の忍耐強い習慣や自信に、私は強い印象を受けていた。〔略〕私には、仲間が集まっても、ほとんど狭い専門研究の話か仕事の話しかしない日本の研究者やビジネスマンよりも、この世界史的な大変化の時代にあって、英国はどういう役割を果たすのか、といったことがらに、それなりの意見をもっている英国の「ふつう」の人々に、何かこの国の目には見えない底力のようなものを感じていたのである。〔以下略〕

ぼくら日本人には、リアルな歴史軸に基づくアイデンティティが欠落してるのだ、たぶん。