うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

自主的思考と象徴天皇

こないだ、朝日のオピニオン「平成流の象徴天皇」に掲載されたものを抜粋。

平成の時代には天皇と政治との関係が大きく変わりました。日本国憲法が求める象徴天皇像からの逸脱がさらに進んだと言っていいでしょう。〔略〕戦争を繰り返さないこと、戦争に対する責任を明確にすることは、国民が自らの主体的責任で解決すべき問題であり、天皇の「おことば」や訪問で代行したり、解決したりできないし、またすべきでもありません。〔略〕国民が選出したわけではない天皇の権威に依存し、代行してもらおうという心情こそ、主権者国民の責任をあいまいにし、民主主義の精神を掘り崩すものです。
渡辺治朝日新聞2019.3.7朝刊15面

 「国民が自らの主体的責任で解決すべき」が、この問題のキモだと思う。

明治以来の天皇制は、自主的思考とは相容れない。天皇制は一様制のためのもので、多様性社会にはフィットしない。

今後、日本社会はどうあるべきかという全体設計のなかに、象徴天皇制の議論は落とし込んでいくべきだ。

追記:この国に天皇がいるということは、ふだんの僕らの暮らしにはあまり関係がなさそうに思えたりするかもしれないけど、そんなことは全くなくて、むしろ、僕らの暮らしや考え方に直結した、とても大事な問題だと考えている。僕らの楽観的な他律的思考(=なんとかなるよ)は、とどのつまり、天皇を頂点に整えられた明治以後の日本社会の体制そのものに根ざしているのであって、ここが根本的に変えられないかぎり、僕らは本当に自律的な存在になることも、多様性を獲得することもできないから、世界の潮流からどんどん脱落していくしか、ない。