うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

無思考

この国のデフォルトは無思考であるように思う。自分で考えない。付和雷同。空気。問題は先送り。波風立てず「まあまあ」。これは日本人の気質とかいうことではなくて歴史的に醸造され親から子に伝承されてきたもののように思う。その起源や歴史的経緯の詳細が知りたい。また、最近の若い子の間では脱無思考の流れが起きているようにも思う。それが何故か、その流れが今度どう動き、この国を変えていくのかいかないのかにも興味がある。

教育と外交の敗戦について

昭和20年の「終戦」に至る経緯とその根本理由について考えている。かつては「軍部の暴走」で片づけられることが多かった。最近ではそんな乱暴な言説はあまり聞かれないようになった。

日中戦争にしろ太平洋戦争にしろ、遡って満州事変にしろ、直接的には「軍部」の関与は大きい。だが当時「軍部」を支えたのは国民だ。戦争末期、昭和18年以降は「軍部」と国民の関係が悪化するが、満州事変で「軍部」に喝采したのは国民だ。「自主的思考」が欠如した国民という要素は重要だ。つまりそれは明治以来の教育に問題があったと思う。

そして外交。昭和16年の日米交渉の裏テーマはじつは日英交渉といえる。アメリカの行動はチャーチル率いるイギリスの外交に操られた側面がある。当時ドイツと戦っていたイギリスは何としても大国アメリカを戦争に参加させたかった。日米開戦はイギリス外交に日米が敗北した結果とみることもできるのではないか。それだけ外交が国家にとって重要だ。当時の日本外交は拙かったし、今も拙いままだ。

一国の外交力は、その国の地力に大きく左右される。国の地力の根本は教育によって培われる。まともな国民がいる国はまともな外交ができる。最近学んだばかりの付け焼刃だが、孔子いわく、徳のある人は孤独にならない。かならずそれを慕って仲間が集まる。それは国家にもいえることだろう。徳のある外交をすれば多くの国家との信頼関係が築ける。軍事力ではなく国家間の厚い信頼関係を下支えにした国防が築けるはずだ。

昭和18年。

80年前の昭和16年12月に始まった太平洋戦争(呼称についての議論は省略)についての私的見取り図を資料を何も見ずにとりあえず書いてみる。

当時、国際情勢とともに見通しがつかなかった要素は軍事技術開発。第一次世界大戦の教訓の一つとして、戦争は軍事技術の開発速度を飛躍的に高めるということがあった。じっさい、アメリカは戦争中に原爆を開発、それが日本降伏の大きな要因のひとつとなったから、この要素が勝敗に及ぼす影響はかなり大きい。たとえばもし、昭和18年に「富嶽」による米本土爆撃が実現していたら、どうなっただろう。

真珠湾攻撃を立案・実行した山本五十六は、開戦前、一年そこらは暴れてみせる(←不正確)と言った。これは手持ちの通常兵器による通常戦法でということだ。山本はミッドウェーの後、技術将校らに新兵器開発を頼んだという。二方面作戦を行える国力、軍事力を持つアメリカにどう立ち向かうか、山本は新兵器開発こそが最大のポイントだと思っていたのだろう。

さて昭和18年。日本軍はガダルカナル島を撤退、戦況は悪化。ドイツも危うい。日本の指導者達が戦争終結を模索し始めた時期と思っている。この現状でどんな手が打てるか。昭和天皇が海軍に対し対米決戦を何度も促したのは、いわゆる一撃講和を狙ったからではないか。そして新兵器。戦場で、もしくは米本土で、アメリカの継戦意欲を挫かせるような新兵器が開発できればとの期待。

いっぽうこの時はのちの「特攻」の萌芽が芽生える時期。特攻の意味は2つある。通常兵器の通常戦法でもない、画期的新兵器開発でもない、アメリカの継戦意欲を挫かせる第三の道=自殺攻撃。そして、それによる国民の継戦意欲の昂揚。後者は特攻を語る上で欠かせない点だが軽視されることが多いように思う。

なぜ特攻が生まれ、最後には全軍特攻などという事態になったか。それはとどのつまり、戦争が続いたから。昭和19年6月のマリアナ沖敗戦で日本軍の敗北は決定したから、戦争をそこで終わりにすれば良かったのに、当時の日本は戦争を継続した。できない戦争を続けたことが特攻を生んだ根本原因であり、特攻を推進した黒島らに責任転嫁をするのではなく、当時の為政者の判断ミス、もしくは無策を責めるべきだろう。

という点から考えると、昭和18年が太平洋戦争の大きな分かれ目ではなかったか。

(仮説)国民と天皇の戦争。

満州事変から日中戦争、太平洋戦争に至るかつての日本について、軍部主導との見方が存在する。

が、それは表層的な捉え方なのではないか、最近とくにそんな気がしている。

本質的には国民の戦争だったのではないか。それと表裏一体として、天皇の戦争だったのではないか。

国民と天皇。いずれも平和を望んでいた。

太平洋戦争で国民と天皇が上機嫌だったのは緒戦だけ。なぜ早期講和に持ち込めなかったか。とどのつまり、国民と天皇が肥大化した自意識から脱却できなかったからではなかったか。わが日本軍は米軍に一撃を加えられるとの思い込みがいたずらに戦争を長引かせたのではなかったか。勝敗は昭和19年6月マリアナ沖海戦で決したわけだが、おそらく昭和18年に「もう無理っす」の判断ができたのではなかったか。国民と天皇が軍部を「もう無理っす」で挟み撃ちしていたら、戦争はそのとき終わっていたのではないか。

…以上あくまで仮説であり検証はこれからです。

頑張りますは自己評価の外部依存

…と、約一ヶ月前のメモ書きにあったのでここに記録しとく。

「思考の外部依存」は、近現代の日本をみるうえで重要な点だと思ってます。

評価基準を自分の中に持てれば、ひたすら他者の顔色をうかがう「頑張ります」は消滅していくと思うんだが。

ぼくを評価するのはぼく自身であって、他人の評価は関係ない、ということです。他人の評価は人それぞれなので、それにいちいちつきあってたらかなわん。ブレない自己評価があればいい。