うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

いまだ日本社会は「徹底抗戦」のなかにある。

日本社会で、本音(実態)と建前(キレイゴト)が乖離しつづけている気がする。それでも、昨日とおなじように、今日が始まり、きっと明日も、おなじように過ぎていく。そうした、一種の微温的ヌルさの中で、ぼくらは自ら何かを打開しようともせず、時が過ぎるのを他律的に待っている気がする。

本音と建前の乖離は、73年前の終戦直前も同じだった。その乖離は、日々大きくなっていった。軍の作戦指導者らは、局所的にでも敵(米軍)に手痛い一撃を与えることで無条件降伏を免れようと懸命だった。だが、マリアナ沖海戦の敗北以後、通常作戦では一撃は不可能となった。特攻作戦が始まった。米軍の進攻速度は想定以上に速く、対応は常に後手に回った。日に日に、一撃の可能性は低くなっていった。それでも戦争は続行した。本音と建前が日々著しく乖離していくなか、叫ばれる言葉はどんどん空疎な枕詞となっていった。日本国全体が思考を停止させ、最後には神風が吹くなどとファンタジーの世界に逃避した。神風は、吹かなかった。

この無責任なヌルさは、いまの日本社会を覆っている。という意味で、いまだ日本社会は「徹底抗戦」のなかにある。

オリンピックは観衆の妄想ファンタジーを満足させるイベントじゃない。

いったいいつまで、オリンピックで国威発揚を続けるのか日本は。

すごいぞニッポン、がんばれニッポン。

全国民の期待を一身に受けた国を代表する選手が、ものすごい頑張りの果てに栄冠をつかみ、日本中が歓喜に包まれるというストーリー。

ファンタジー。

いまだに僕らは、欧米人に比べて劣っているという先天的な思い込みに支配されていて、その劣等感を、なんどもなんども払拭しようとし続けている。

この国はほんとうに、代表選手に良いパフォーマンスを発揮させようと思ってるのか。あんまりそう思えないんだ。プレッシャーで押しつぶそうとしているようにしか、見えないんだ。で、あんまりプレッシャーを感じないノーマークの選手とか、心臓に毛が生えた選手とかが結果を出す。結果を出すのに、地獄の特訓だとか必要ないのに、そういう物語を求める。がんばり物語を欲しがる。

いったい何のための誰のためのオリンピックなんだ。

「日本人フリー」の提唱

日本人という民族はたしかにこの日本国土にずいぶん前から暮らしてたんだけど、日本人というアイデンティティが日本人に芽生えたのはかなり最近のことで、かつ、日本人という属性については理想的に語られ刷り込まれた部分がかなりあって、僕らはその支配下にいまだあり、いわば近現代史に自らのアイデンティティが規定されているといってよい。つまり本来の自分じゃない自分に押し込まれている状態。

それを誰が望んでるかっていうと、まあ、自分自身が望んでる形になってるわけで、無意識のうちに。

で、そこを自覚的に解決しようとすると、明治期以後に歴史的に刷り込まれた「日本人」なるものを、いったんリセットしてみたらどうなの的なのが、この「日本人フリー」の提唱なわけであります。

だいたい、なんなのよ日本人って。ぼくら普段暮らすうえでは、むしろ、ぼくが生まれ育った愛知の「三河人」だったり、名古屋人だったり尾張人だったり(愛知県はこの3タイプに分類されます)、日本って国単位よりもっとローカルな自己規定になってんじゃねえのか。という意味でいうと僕は、「もとは純粋な三河人でしたけど、いまはかなりの埼玉人です」的なアイデンティティとなるわけで。

レジェンド賞賛と過去のトラウマ説。

戦後の日本人はファンタジー、幻想のなかを生きているのではないか仮説。

戦前・戦中の日本および日本人の実態は、戦後ぼくらがイメージしているものと、かなりのズレがある。それはどうしてか。

ジョン・ダワーがいうような、敗戦のショック。それまで死と直面しつづけてきた緊張感から脱した虚無状態。そして、占領下の価値観の大転換。そんなこんなが、日本人に架空の物語を紡ぎださせたのではないかという仮説を立ててみる。

敗戦というトラウマ。

たとえば、レジェンド葛西やレジェンドカズは、なぜ賞賛されるのか。単純にスポーツ選手の優劣なら年齢は関係ない。「諦めないでやり続ける」ことのアイコン。それを賞賛したい日本人の心理。

敗戦を認めたくない。頑張って頑張って、諦めないでやり続けてきたからこその戦後高度経済成長があり世界二位の経済大国であり豊かさの実現であるとして、戦前戦中の苦難と戦後の成功をひとつなぎに把握して自らを納得させたいから、ではないか説。

まだちゃんと調べてないんだけど、「老舗」がもてはやされるようになったのは、どうも、ここ数十年の間のようである。

レジェンド崇拝の風潮は、日本人が過去のトラウマに縛られているからなのではないか。ぼくらは不自由な今を生きているのではないか。

そこには引き続き、こだわっていきたい。

本当の雑草魂は、頑張らない。

稲垣栄洋『雑草はなぜそこに生えているか』(ちくまプリマー新書、2018年1月)が面白い。

「雑草は、踏まれても踏まれても立ち上がる」と、よく言われるが、じつは、「踏まれた雑草は立ち上がらない」と著者は書く(p179)。

雑草は、踏まれたら立ち上がらない。よく踏まれるところに生えている雑草を見ると、踏まれてもダメージが小さいように、みんな地面に横たわるようにして生えている。
「踏まれたら、立ち上がらない」というのが、本当の雑草魂なのだ。
たくましいイメージのある雑草にしては、あまりにも情けないと思うかもしれない。
しかし、本当にそうだろうか。
そもそも、どうして立ち上がらなければならないのだろう。
雑草にとって、もっとも重要なことは何だろうか。それは、花を咲かせて種子を残すことにある。そうであるとすれば、踏まれても踏まれても立ち上がるというのは、かなり無駄なことである。そんな余分なことにエネルギーを使うよりも、踏まれながらどうやって花を咲かせるかということの方が大切である。〔略〕雑草は踏まれながらも、最大限のエネルギーを使って、花を咲かせ、確実に種子を残すのである。
踏まれても踏まれても立ち上がるやみくもな根性論よりも、ずっとしたたかで、たくましいのである。

たしかに、踏まれた雑草は立ち上がらない。人がよく通り、踏みつける地面の雑草は、低く生えている。また、雑草を短く刈っていると、あまり背を伸ばさなくなる。

で、「雑草のように耐えて頑張れ」という説教についてなんだが。

生き物は、目的に忠実に生きている。生き残る、という、もっとも大事な目的に、忠実に生きている。生き残るために最適化する。踏まれたら立ち上がらないのも、最適化だ。

頑張る、という行為は、多分に、社会的な行為だ。ほんらいの目的のために頑張るというのももちろんあるのだが、それと同等、あるいは、それ以上に、頑張っている姿をアピールするという意味合いが強い行為だ。少なくとも僕はそう思っている。

「雑草のように耐えて頑張る」というのは、所属する社会が、所属する集団が、その姿を、あるべき理想像と考え、それを美しいと考え、所属する成員にそうあるべく要求し、成員がその期待に応えることによって、社会や集団で承認を得る、という、一連の社会的行為だ。

そんな余分なことにエネルギーを使って、日々僕らは暮らしている。

社会や集団を維持するために、余計な時間や手間をかけている。

だから日本社会は非効率で、日本の生産性は低く、僕らは不幸せで、大切なことを、見失ったままなのだ。

…と、思うんだけどなあ。

※「頑張る」については以下メインブログに書きましたんで。

頑張るという美徳:自己犠牲を期待する圧力が時に僕らを縛りつける

「頑張り圧」という悪弊、頑張らないという戦略:提言「楽勝のススメ」

「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ

「頑張る」は日本人に固有の民族性ではなく戦時中の刷り込みです