うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

「日本人フリー」の提唱

日本人という民族はたしかにこの日本国土にずいぶん前から暮らしてたんだけど、日本人というアイデンティティが日本人に芽生えたのはかなり最近のことで、かつ、日本人という属性については理想的に語られ刷り込まれた部分がかなりあって、僕らはその支配下にいまだあり、いわば近現代史に自らのアイデンティティが規定されているといってよい。つまり本来の自分じゃない自分に押し込まれている状態。

それを誰が望んでるかっていうと、まあ、自分自身が望んでる形になってるわけで、無意識のうちに。

で、そこを自覚的に解決しようとすると、明治期以後に歴史的に刷り込まれた「日本人」なるものを、いったんリセットしてみたらどうなの的なのが、この「日本人フリー」の提唱なわけであります。

だいたい、なんなのよ日本人って。ぼくら普段暮らすうえでは、むしろ、ぼくが生まれ育った愛知の「三河人」だったり、名古屋人だったり尾張人だったり(愛知県はこの3タイプに分類されます)、日本って国単位よりもっとローカルな自己規定になってんじゃねえのか。という意味でいうと僕は、「もとは純粋な三河人でしたけど、いまはかなりの埼玉人です」的なアイデンティティとなるわけで。