うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

1968年の日本は「中進国」だった。

毎日新聞2018.10.24社説「1968年、明治100年記念の時と比べてみよう。敗戦から23年、独立回復から16年。すでに東京オリンピックを開催し、高度経済成長の真っただ中にいたとはいえ、本紙社説は日本のランクを「中進国」と記している」

で、当時の社説。1968.10.24「日本が「中進国」として、いわゆる“南北問題”に寄与しうる役割については、むしろ、外国の期待が大きいようだが、われわれは、その期待される役割を果たしつつ、やがて、中進国の水準を脱して、先進国の地位に列する野心をもちたい、と思う。もっとも、このような役割については、かなり悲観的な見解をとる向きもある。日本の中進性は、時間的にも地理的にも宿命であって、むしろそのような宿命を甘受して、世界に向かってその役割を果たすべきだ、というのである。つまり、日本が五歩進めば、米国は十歩進んでいるだろう。ムリに追いつくことをあせるよりも、中進国の地位を保持しながら、日本人の得意とする模倣と応用の才を百パーセント発揮することによって、アジアに多い発展途上国の開発援助に寄与することこそ、最も日本にふさわしい役割だ、というのである」

ふうーん。当時このような、「中進国が日本の宿命」というような、いまから考えるとずいぶんと悲観的な見方があったのだな。

ところがすでにこのとき、日本はGNPで世界第二位の「経済大国」となっていた(翌年6月10日に経済企画庁が発表した国民所得統計(速報)で明らかに)。

翌年の流行は、「オー・モーレツ!」。4月1日からの丸善石油のガソリンのテレビCMで、モデルは小川ローザ。さまざまな場面で感嘆詞的に使われ、子どもたちの間では、このことばをかけ声にしたスカートめくり遊びなどが流行した。組織の目的に迷わず突進していく「モーレツ人間」や「モーレツサラリーマン」などのことばも生まれた(『昭和 二万日の全記録』)。

「中進国としての諦め」から、「大国」としての自覚が生まれるのが、この頃の日本。時代の大きな転換点。

教育勅語議論の幻想性

いまもそうだけど、教育勅語が、ときどき、話題になる。

正直、ぼくは教育勅語じたいにあまり興味がない。内容も、目を通したことはあるはずだが、よく覚えていない。ある種の理想を掲げたもので、とくに面白いものでもないし。

興味があるのは、それが話題になるとき、賛成・反対のそれぞれの主張が、いつも一定でワンパターンに感じることだ。

たぶん、教育勅語はある種のアイコン化してるのだろう。

賛成派は、いつも道徳的普遍性みたいなものを言うのだが、それは、社会や家族の「型」みたいなものだ。それが失われているという、敗戦後ずっと言われ続けている主張で、現状への危機感があるのだろうが、そもそも、その「型」がこの国で有益に作用したことが、一度でもあるのだろうか。ただの幻想じゃないのか。

反対派は、いつも軍国主義を持ち出すのだが、軍国主義って、そもそも何だ。根っこにあるのは、大国になってもっといい暮らしがしたいっていう、庶民の願望だったとするなら、戦後高度経済成長で経済「大国」になったのも、ぶっちゃけ大差ないじゃないか。教育勅語軍国主義って、ただの幻想じゃないのか。

…というわけで、ふたつの相容れない幻想がバトルってるって話。

それより、幻想の生成と普及定着のプロセスチーズを解明したほうが、有益だし、面白い。

日本人世代&経済的「領土」についてメモ

…というのは、具体的にいうと、昭和元年から、昭和50年ぐらいの間に生まれた世代のことになるだろう。

ま、ざっくり、昭和世代だ。

頑張れば夢がかなうとの神話を信じられた昭和生まれの世代こそが、「日本人」なんだ。

 

…ということと関係なく単にメモだけど、1945年敗戦までの日本の領土は今よりも広かったわけだけど、経済的な「領土」(といっていいのかどうか)はそれよりもかなり広かった。朝日新聞の中国進出だとか、日本交通公社電通も大陸進出してたし。それが敗戦で一気に失われて、大陸に散らばってた社員も総出で帰国したわけだ。人はどんどん戻ってくるけどろくな産業はないし、だいいち国家としての主権がないし、外務省の役人はすっかり意気消沈してるし、というのが占領下日本でありました。

日本人という輪郭

現在の「日本人」という輪郭が確立したのは、1945年の敗戦後のことだ。

それまでは、朝鮮とかも「日本」だったからね。満州など含めて、「大日本」といった国家の輪郭だった。

敗戦で、「大日本」は、「小日本」になった。いまのアイデンティティは、戦後の小日本時代のものだ。

また、戦後占領期にはアイデンティティは確立していない。国家主権も奪われた状況下で、アイデンティティも何もあるものか。

つまり、早くても、アイデンティティ確立は、日本が独立を回復した1952(昭和27)年よりも後となる。

この頃、「がんばる」は、まだ、必ずしも今のような意味で使われてはいなかった。当時のニュアンスで言うと、富田林署逃走事件の樋田容疑者なんかは「がんばって逃げ続けた」とかなるだろうか。

(つづく)

「日本人という世代」についての最初の考察。

ここのところ続けて書いている内容について。

つまりはだ、「日本人」というアイデンティティは、結局のところ、世代なんだ。

ある世代のアイデンティティが、「日本人」なんだ。

もちろん、日本人はずっと前からこの国に暮らしているんだけどさ、でも、日本人って自覚をもちはじめたのは早くても明治以降で。

…という考えを、今後、進めてみようと思う。

「がんばる」とは、絶望的な願望をあらわすフレーズか。

さっき書いた記事「昭和史のパラレルワールド:今後「日本人」は失われていく。」で、こう書いた。

日本は「がんばって」大国になったわけではない。いくらがんばろうと、また、がんばらなくても、冷戦という国際情勢下でアメリカが下した現実的な判断がなければ、日本はいまだに「惨めな敗戦国」のままだっただろう。

 さらに考えてみた。

日本が明治以来追い求め続けてきた「大国」の座は、主体的につかみとったのではなく、棚ボタ的に貰ったものだ。

それを、当の日本人たちが、自覚しているのか、自覚していないのかはともかくとして。

かりに自覚していたにせよ、その現実は認めたくはない。

じつは、「がんばる」という言葉が、いまの意味で、過剰に用いられるようになったのは、日本に経済大国の自覚が生まれて以後、1970年代以後のことだ。

それは、じつは、この他律的に与えられた「大国」の地位を、あたかも自らが「がんばって」入手したものとみなしたい、という、人びとの願望が、その現象を生んだのではないか。

「がんばる」の本質は、現実逃避なのではないか。

となると、人びとが、「がんばる」とか「がんばれば夢がかなう」とか、現実逃避フレーズのなかに逃げ込んでいるかぎり、状況は絶望的なのではないか。

「がんばる」とは、じつは、絶望的な願望をあらわすフレーズなのではないか。

昭和史のパラレルワールド:今後「日本人」は失われていく。

いまの「日本人」のアイデンティティ形成の過程をみていくうえで、昭和史は決定的に重要だ。アイデンティティの萌芽がうまれたのは昭和初期で、アイデンティティが確立したのは昭和後期だから。平成は、その確立された強固なアイデンティティの弊害に悩まされ、それを克服しようともがいた30年間だったのではないか。

昭和の約60年間をもって確立されたものが、平成の30年をもってしても、いまだ克服できていない。

そのアイデンティティの核は、「大国の自覚」だ。

明治以来の日本は、ひたすら、「大国」を目指して突っ走ってきた。軍事大国としての試みは大失敗に終わり、その後はアメリカに守られながら、経済大国として成功を収めた。

戦後占領期の日本にはさまざまな選択肢があったが、もしアメリカが、初期の厳しい占領対策を変えなかったら、日本は経済大国になることはなかった。よくて軽工業国、あるいは農業国として、貧困にあえぎながら、低い経済成長をずっと続けていた可能性もあった。

どれだけ日本人が「がんばっても」、だ。

つまり、日本は「がんばって」大国になったわけではない。いくらがんばろうと、また、がんばらなくても、冷戦という国際情勢下でアメリカが下した現実的な判断がなければ、日本はいまだに「惨めな敗戦国」のままだっただろう。

それが現実だ。

アイデンティティは、自分が立っている、その土台に、大きく左右される。もしいまの日本が、低成長の農業国、惨めな敗戦国のままであったら、僕らのアイデンティティは、どうだっただろうか。その「パラレルワールド」を想像してみる。自信をもてる歴史がない以上、そのアイデンティティも、か細く、頼りないものだったはずだ。いいかえると、「日本人のアイデンティティ」なんて頼りないものに依存するのではなく、「おれはおれ的なアイデンティティ」で、各自が生きていたはずだ。

「正解」のないその社会は、単一性・画一性よりも、多様性を認める社会であったはずだ。

そう考えていくと、日本が明治以来憧れ続けてきた「大国」の座を得たことで失われたものが、どれだけ大きかったかがわかる。

と同時に、日本社会がこれから向かうべき方向性も、明白になる。

ぼくらは、どんどん、「日本人としてのアイデンティティ」を喪失していく。多くの外国人を受け入れ、多様なあり方、多様な価値観を受容する社会になっていく。なっていかざるをえない。

そうして日本は、「普通の国」になっていく。