共著『「昭和天皇拝謁記」を読む─象徴天皇制への道』で私は、
「拝謁記」は田島自身が手帳に記した表現ですが、読み進めていくと、あたかも「諫言記」のような内容であることがわかります。(257頁)
と書きました。田島道治長官は昭和天皇の過ちを正し続けたのですが、それに関し、知人に送ったメールをベースに以下。
はたして戦時中、大元帥でもあった昭和天皇にこうした態度で接した側近や大臣、陸海軍トップ(参謀総長、軍令部総長)はいたのでしょうか。
私は、いなかったのではないかと思っています。
侍従長だった百武三郎や侍従武官だった坪島文雄など公開された側近の日記を見ても、田島のように誰かが昭和天皇に対し諫言を繰り返している記述は見受けられませんでした(どなたかもしご存じだったらご教授ください)。
たとえば昭和19年6月に日本軍がサイパン島を断念した際。たしか蓮沼蕃侍従武官長が昭和天皇の内意を受け、内大臣木戸幸一の承諾をとった上で元帥会議を開催したのですが、あのとき誰かが昭和天皇に「もう諦めてください、日本の敗けです」と諫言して昭和天皇が継戦を断念していたら、その後の歴史は大きく変わったと思うのです(山田朗先生は『近代日本軍事力の研究』で、これ以降の戦闘を「戦争の勝敗が決したあとの戦いであり、米軍にとっては残敵掃討戦」と指摘しています)。でもそんな人はいませんでした。軍事上の重要拠点だったサイパン島を諦めきれなかった昭和天皇の心情は理解できなくもないのですが。
あの6月25日の元帥会議で伏見宮元帥が「なにか特殊の兵器を考え、これを用いて戦争をしなければならない」と語っています。これがその後の特攻作戦への起点とも考えられることもあり、私はこの元帥会議の開催自体が問題だったと思っています。
そう考えると田島のブレない諫言ぶりは見事としか言いようがありません。とりわけ昭和天皇の政治介入、改憲再軍備への言及を徹底的に封じたことは、戦後日本の進路にも大きな影響を与えたのではないでしょうか。
また、そこまで言われても最後まで昭和天皇が田島を信頼し続けたことからは、昭和天皇は実は田島のような側近をずっと求めていたのではないか、そんな側近を得られなかったことが昭和天皇の不幸と孤独、そして日本の敗戦と多くの犠牲につながったのではないかとも思ったりします。
初代宮内庁長官に田島道治が就いた意義は、もっと語られてもいいような気がしています。