うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

天皇制試論:なぜ僕は不安にかられるのか

先行きが見透せないとき、見透しにネガティブな要素があるとき、人は不安になる。

その見透しが詳細だったり、長期にわたるものだったりすると、ネガティブな要素は増加するから、人はいっそう不安になる。

いっぽう、先行きを見透さなければ人は不安にはならない。不安になりたくなければ、先のことをあまり考えないことだ。

また、先行きを見透したとしても、他力本願なら、人は不安にはならない。誰かが何とかしてくれる、そう思えれば、不安にはならない。

日本における天皇制の意味はここにあるのではないか。そう思ったのは、たとえば血盟団事件。資料を確認せずに書くので誤りがあったらゴメンナサイだが、血盟団事件はある意味で無責任な考え方に基づいていた。天皇という太陽がさんさんと降り注ぐようにするために、陽の光を遮る雲を蹴散らす。蹴散らした後をどうするかまでは考えない。とにかく雲を蹴散らしさえすれば、あとは天皇が何とかしてくれる。そういった考え方だったはずだ。

天皇が何とかしてくれる。

昭和初期から敗戦までの日本は、要は天皇頼みだった。社会集団組織は思考を停止し、皆が空を見上げていた。結局、「聖断」によって戦争という自動マシーンは止まった。

戦後。人々は自主的思考を取り戻したのだろうか。いや、全国行幸の人々の熱狂をみるかぎり、そうは思えない。人々はおそらく、戦前戦中と変わらぬ天皇の姿を見て、「私たちは変わらなくていい」ことに、心から安堵したのではないか。

そして高度経済成長。頑張って働く=思考停止した自動マシーンとして動き続けていれば、毎年給料が上がっていった、幸せな時代。考える必要など、なかった。

天皇のもと、人々が思考を停止したことで、戦争で多くの不幸が生まれ、豊かな社会が現出した。そして今。思考を停止しつづける僕らの前には、問題が山積だ。

と、考えていくと、結論としては、僕らは不安にかられる日常を生きていかなければならない。