うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

都会と田舎:大地の活気とか何とか

都会は賑やかで、きらびやかで、人々のエネルギーに満ちあふれているように見えるのだが、はたして、クリエイティブなのだろうか。

たんにコンテンツをつくっていればクリエイティブ、ということなら、都会はめちゃめちゃクリエイティブなのだけど、内実どれだけ、創造性にあふれたものなのかと問うていくと、都会が生み出すものはけっこう、うわべだけでペラペラだったりする。

いや、かつて都会がクリエイティブだった時代があったのだろう。1970年代とか。人々のカオスがぐわっと充満して、そこから新しいものが弾けるように生み出されていた時代。

でも、時は流れた。

話は変わるけど、都会は、死が希薄だ。それは、大地がコンクリートで覆いつくされているから。土があれば、生命がある。生があれば、死もある。大地は生死が充満した世界だ。大地に欠けた都会は、生も死も欠けている。人々の活気に満ちた雑踏は、同時に、大地の活気に欠けた空間だ。

そこで何が生み出されるというのだろうか。

都会は、がんばる。相互規定された関係性のなかで、定められたルーティンを反復する。思考は削られていく。

田舎は、がんばらない。ほどけた相互規定から、多様な可能性が生まれる。ゆとりから、新しい発想が育っていく。

…と単純化するのも、どうかとは思うけど。