うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

自分たちに都合の良い主張は歓迎されるという当たり前の話。

大前治という方が書いた、「焼夷弾は手掴み、空襲は大丈夫…国民は「東京大空襲」をどう迎えたか」や「10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか」が話題沸騰らしいので、それについてのコメントをいちおう書いておく。

全体的には、まあだいたい、そんな感じだと思います。厳しく言ってしまうと、そこに提示された視点もファクトも、これまで戦後70年以上もの間、さんざん言われてきたことのような、言い古された感があって、僕には新発見といえるものはなかった。

それより、この方が、政府と国民を対立的にとらえているというか、戦争遂行者たる政府と、その犠牲になった国民という、コントラストのはっきりした構図で説明している点に、違和感を感じた。また、いまさら感の漂うこうした記事が話題沸騰していることには、正直がっかりした。この程度でいいのかー的な。これじゃあ、僕がここで書いたりしてることは決してメジャーになれないなあ、僕的にはかなり誠実に、大事なことを書いてるつもりなのになあ、と思った。

国民は政府や軍部にだまされた、という主張は、戦後すぐから、一貫してみられるものだ。軍、とくに陸軍にすべての責任を押しつけて切り捨てる一方で、天皇の責任は問わない、とするGHQの方針と合致したこともあって、この主張は広く浸透した。大前氏の主張も、その線からなされている。

が、これも古くからなされているのだが、「伊丹万作 戦争責任者の問題」に代表される主張がある。ちょっと長いけど一部引用。

多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏につとめていたのであろう。
 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

こちらはあまり浸透していない。理由は、多くの国民にとって都合が悪いからだ。都合が悪い主張を、国民は受け入れない。それが事実であったとしても。

こういう「わかりやすい」主張が、いまだに人々の支持を広く得ているのだなあ、という事実に、ぼくはとても落胆をしました。

追記2点。

1:大前氏の言う「フェイクニュース」を、国民がどれだけ信じていたか。これは本間報告書(リンク先記事では東京大空襲あたりの記述はまだ書いてないけど)などである程度は読み取れる。ぶっちゃけ、この頃の「権威」はかなり失墜していた。拙著『終戦史』p184「「陸軍という権威」は既に地に堕ちていた」から以下引用。

 表面上はあくまでも勇ましい陸軍の内情が、本土決戦前にすでに「カカシ」と化していたことは既述の通りだが、それを見つめる国民の視線も怒りに満ちたものに変容していたようである。
 3月6日、海軍の高木惣吉は内務次官や警保局長からこんなことを言われている。
「国民の不満、不平、罹災民の憤満、軍部特にA〔陸軍のこと〕に対する憎悪心は、最近の防衛演習、各地防衛措置に於けるA末梢の横暴(食糧の独占、風儀攪乱等)により急「テンポ」に増大しあり。先日、神田の被爆火災のとき、A政務次官が見舞の為現場に臨みたるところ(Aの軍属の服装にて)、その自動車の黄色旗〔将官旗〕に唾を吐かけたるものが三、四名出でたる事実あり。以てその一端を推すに足る」
 また、高木が「夫れを善導するが現内務当局の責任ならずや」と問いかけたのに対し、彼らは「その通りなるが実際は熱意を失いつつあり」と答えている(註185=『高木惣吉 日記と情報』下p819)。
 また、小磯内閣時に内閣の私的顧問として本間雅晴陸軍中将が内外のさまざまな動向を広く収集、報告していた、いわゆる「本間報告書」と呼ばれる史料があるが、それによれば、3月10日の東京大空襲後の人心の悪化をこう伝えている。
「一、帝都空襲被害と人心悪化の兆候
1 電車に乗れる陸軍中佐、陸軍少佐の某両名に対し同乗者の2、3の者は大声高談して当てつけるが如く罵倒せり。
甲「吾々国民は斯るボロボロ服装で我慢しているのに、軍人の服装だけが代用品なしではないか」
乙「一番癪に障るのは軍人の綺麗な長靴だ。殊に最近将校が書類入の鞄を抱込んでいるのは武官が文官に堕落した証左だ」
丙「被害地を高級自動車で乗回し視察するのは上級軍人ではないか。彼等は暖衣飽食して来たから、今日の様に戦争は敗けて来たのだ」(註186=「情報」第72号(3.16)(「本間報告書」(『法律研究所報』八幡大学法律研究所、2号、1968年3月)p265~266))
 このように、陸軍の権威はすでに地に堕ちていた。

2:小役人や下っ端軍人の言動をいかに批判しようが、彼らは所詮は一官僚にすぎず、国が戦争をあくまでも続けるとしている以上、それに沿ったことしか言えないしできない。一官僚の勇気ある言動を期待したいにしても、本筋ではない。

戦争遂行者とは、はたして誰だったのか。小磯首相か?いやいや、小磯はそんなタマじゃない。結局のところ、大元帥たる昭和天皇が継戦意志を捨てないかぎり、戦争は終わらないのだ。史料から確認できる歴史的事実もそうだ。それに触れないで、やれ軍部の暴走だの、為政者たちの無責任だのと責めたところで、的外れではないか。

さらに追記1点。この問題の焦点は、「平和≒戦争:「戦争は絶対にダメ」は、逆に戦争へのエンジンとなりうる」で書いたようなことかも。つまり、体制が変わり、指導者が変わっても、僕ら国民が変わらない限り、また同じことが繰り返されるであろうということ。

まあ、水戸黄門とか、「私、失敗しないので」とか、毎度の鉄板モノが安定的な人気を誇るこの国だから、結局なにも変わらないんだろうなあと絶望的な気分になった。

(この稿は、いずれ改めて、こっちに書くかも)