うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

誰のための猛練習か→目上への服従

日大アメフット部問題の続き。

昨夜のテレ東の「フットブレイン(FOOT×BRAIN)」に、スノーボードパラレル大回転・ソチ五輪銀メダリストの竹内智香さんが出ていて、興味深かった。竹内さんはスイス代表チームと一緒に練習をしていたときのことを振り返って、スイスチームの練習が短いことに驚き、1週間もオフなんて、と思ったが、「こちらのやり方で一度やってみたら」と言われてやってみたら、結果、そのほうが集中が増して成績が飛躍的に伸びたのだという(←メモとってないので記憶)。同様のことを別の記事でも語っていたので以下引用。

スイスチームはオフがすごく長い。雪上を滑る練習の本数があまりに少ないのです。「たくさん練習することが結果につながる」と考える日本の環境とはまったく違いました。また、日本ではスポーツの世界は縦社会。でもスイスでは、コーチは私が競技に集中するために、身の回りのことはコーチが全部やってくれます。練習も押しつけてくるのではなく、私の考えを聞いてくれる。「こんなにいい環境で競技を続けられる国があったんだ、もっと早く来ていれば、もっと早くにトップ選手になれたかもしれない」と、一時は国籍を変えることも考えました。[五輪銀・竹内智香が語る海外挑戦の意義 スイスで学んだ「勝ちにいく」精神 - スポーツナビ]

 伝統的(?)な日本の考え方は、「練習は嘘をつかない」ですが、スイスチームの考え方はそうではないようです。おそらくそれが世界標準なのでしょう。武井壮ダルビッシュ有は「練習は嘘つくよ」と言っているようです。

竹内さんの「もっと早く来ていれば、もっと早くにトップ選手になれたかも」というのは、つまり、日本の「非合理的な縦社会」では、その猛練習は、早く上達するためというより、別の目的のために浪費されている、ということを意味するのでしょう。

誰のための猛練習か。それは、目上の存在、先輩や監督に服従するための猛練習なのでしょう。

ラグビー日本代表のヘッドコーチだったエディ・ジョーンズが、「日本のラグビー文化は、パフォーマンスをするというところではありませんでした。高校、大学、そしてトップリーグチームまでもがそういう文化です。高いレベルでパフォーマンスをするための練習をしていない。規律を守らせるために、従順にさせるために練習をしているだけなので勝てない[link]」と語っていたことにも通じます。

これ、日本の学校で運動部系の部活動をやってた人なら、わかるはずです。

日大アメフット部問題:絶対無比の権力者としての「天皇」がまかり通る日本社会

誰かが誰かを意のままにする、服従させる、そしてそれに従順なひと達、というあり方は、前近代的で、自立・自律した個人のあり方とは、かけ離れている。

たとえば日大アメフット部の悪質タックル問題。

アメリカンフットボールの日大と関学大の定期戦で悪質な反則行為があった問題で、危険なタックルをした日大DLの選手は、内田正人監督の指示があったと周囲に話していることが16日、分かった。同選手は、退部の意向を示しており、「『(反則を)やるなら(試合に)出してやる』と監督から言われた」と語っているという。
〔略〕
この日、無防備関学大QBに背後からタックルした日大DLは「『(反則を)やるなら(試合に)出してやる』と監督から言われた」と話していることが判明した。
大関係者によると、反則を犯した選手は、下級生の頃から主力としてプレー。しかし、最近は内田監督から精神面で苦言をていされ「干されている状態だった」と話す関係者もいる。6日の試合前には、家庭の事情で約1週間、練習を欠席。定期戦前に監督から「やるなら出す」と、反則行為を条件に出場機会が与えられたという。
[日刊スポーツ2018年5月17日8時49分:日大アメフト監督が指示「反則やるなら出してやる」]

真偽は今後明らかになるだろう。この記事で書かれていることの信憑性も定かではないが、しかし、記者はおそらく、きちんと取材をしたうえで確信をもってこの記事を書いているように感じたし、そもそも、体育会的な集団では、こうした事態は充分起こりうることだろう。

こうした事態とは、監督が選手に反則を指示した、ということではなく、監督が選手に、ありえない指示を出し、選手がそれに従った、という事態だ。服従、従順の関係性だ。

どんな組織、集団であれ、上に立つ者が絶対、ということは、本来ありえないはずだ。人と人との関係性は、そんな不条理で暴力的なものであってはならない。なのに、この国では、いまだに、そんな関係性が、大手をふってまかり通っている。

いわゆる、比喩的な表現としての「天皇」の存在だ。

「○○○の天皇」などと、企業・組織や一定のコミュニティの中で絶対無比の権力や影響力を持つ特定の人物を指す表現として用いられることもある。類似語にワンマン。[link]

 いたるところに「天皇」がいる。当の天皇は戦後新憲法で象徴的存在となり、日本社会で絶対無比の権力を持つ存在ではなくなったのに。そして、おそらく今上天皇も、そんな「天皇」ではない、憲法が規定する象徴としての存在を果たそうとしているのに、いまだに古い「天皇」がはびこっている、日本という国。

「未来の私は、がんばった私で出来ている」のは、僕は嫌だ。

電車の車内吊り広告に、Gabaの「未来の私は、がんばった私で出来ている。」というコピーを見た。

ちょっと前の「人は、がんばりたい生きものだから。」といい、広告には「がんばる」を肯定的にとらえたコピーがしばしば登場するのは、これだけ日常生活に浸透しまくっているワードだし、好きなひともいるから、しょうがないけど。

僕なら、「未来の私は、夢中になった私で出来ている。」のほうがいい。「がんばった私」って、言い訳くさいというか、「これだけがんばったのよ私!」的なアピールがハンパない感じがして。

「従順な人々の国」の成立過程は?

現代日本社会は、従順な人々によって主に構成されている。おそらく今後、大きく変わっていくだろうが、いまのところ基本線はそうだ。

従順な人々の価値観はきわめて内向きで、既存社会体制とそれを支える価値観を受け容れ、「上」には無条件に従う。つべこべ言わない。歯向かわない。敵と戦うよりも、絆の保持に熱心だ。

さて、こうした気質は、日本人固有のものではない。この百年の間、この社会のなかで熟成されてきたものだ。

この百年間、日本人の気質に大きな影響を与えたのは、大きくは2つ、戦争という失敗体験と、高度経済成長という成功体験だ。と考えると、「従順な人々の国」が成立したのは、高度経済成長期の終盤以後、1970年代と考えられる。

その詳細を、つぶさに点検しなくては。

TOKIO山口達也問題と財務省事務次官セクハラ問題(続):「みんな」から「わたし」へ。

前回の続き。

TOKIO山口達也問題と、財務省事務次官セクハラ問題というのは、同根か。女性に対するわいせつ行為/セクハラ発言ということだけでなしに。

芸能界トップのアイドル事務所所属タレントが、おそらくはその「権威」を存分に行使した行い。官僚トップの財務省事務次官が、やはりその「権威」を存分に行使した行い。いずれも、本人もしくは家族の勇断なしには、おそらく闇に葬られていたであろうこと。そして、一部で指摘されているように、いずれも、おそらくは初犯ではなく、これまで闇に葬られたであろう類似の行いが複数あったであろうと推測されていること。

それぞれ、これまで磐石と思われていた業界内のピラミッド構造が崩壊しつつあることを、この2つの事例は示している。

そしてそれは何を意味するのか。

旧世代の価値観、行動規範の根底にあった「タテマエ」が経年劣化し、「みんなの時代」から「わたしの時代」へ、新旧世代間の価値観が激しく軋轢を起こしているのではないか。

「みんな」のために、「わたし」を犠牲にしてきた旧価値観から、「わたし」は譲れないと、「みんな」の幻想が滅んでいく時代に。

「みんな」の時代から「百花繚乱」の時代へ(TOKIO山口達也と財務省事務次官セクハラ)

TOKIOの山口達也が女子高校生への強制わいせつ容疑で書類送検された件。印象的だったのは、それについて、メンバーの国分太一、リーダーの城島茂、山口をよく知る先輩の東山紀之と、ジャニーズのタレント達が、それぞれの言葉で考えを語ったことだった。

ジャニーズって、前からこんなだっけか?

事務所側にすれば、所属タレント達がフリートークされるのは、困るんじゃないかと思う。さらに面倒なことになりかねないし。だけど、彼らは生放送で、自分自身の言葉で語っていたように見えたし、それぞれが、それぞれらしく感じた。ポジショントークの面もあったかもしれないけど。

かつて芸能タレント事務所というのは、芸能人という幻想を作りあげ、それを維持することで生計を立てていたはずだが、いまでは、各自が自分らしく、自分のカラーで語るほうが、事務所としても、ビジネス上、得策だと考えているのだろう(か)。

春の園遊会で、平昌オリンピックのスピードスケート女子、小平奈緒選手や髙木菜那選手、髙木美帆選手らが、それぞれお好みの振袖で出席し、「それぞれ自分らしい色で」と、自分らしさを語っていた。平昌オリンピックでは、選手団の主将をつとめた小平選手は、結団式で「百花繚乱」という言葉を掲げたが、これも、自分らしさや個性を発揮することを目指した表現だ。

何がいいたいのかというと、この国ではこれまで、これまでというのは約百年近くにわたって、自分らしさや個性より、所属する社会や集団内の調和=一致団結、心を一つに(ちくま学芸文庫、呉座勇一『一揆の原理』p76-77)が優先されてきた。おそらくそれは、開国して近代化をめざす日本が、欧米列強にのみこまれないため、追いつき追い越すため、自らに課したことであったのだろう。日本は長らく、欧米列強に対し、国をあげた「一揆」の状態だったのだ。日清・日露の両戦争を通して日本国のアイデンティティは固まり、さらに、日中戦争・太平洋戦争でその「一揆」は頂点に達したが、結果、敗戦に終わった。が、戦後占領期・高度経済成長期も、「一揆」モードは継続する。ほんとうは、占領期の日本は内実バラバラであったし、高度経済成長期も、豊かになりたいという各自の欲望でつき進んでいった時代なので、「一揆」とはいえないのだが、でも、「日本人が火の玉となって一心不乱に突き進んだ結果の経済大国」というストーリーを信じている人は多いし、おそらく、タコツボ化したムラ社会ならぬ企業社会において、各部、各課の気分としては「火の玉」だったかもしれない。そして「一揆」は失敗の歴史から成功の歴史へと書き換えられ、みずからの成功神話に日本人は酔った。

そして信じた。おれたちは一致団結すれば強いんだと。

その誤った「成功への方程式」がfixしたのは、1970年代あたりであろうと思う。ド根性、頑張る、が一世風靡した頃だ。「みんな」の時代といってもいいだろう。自分らしさよりも、みんなで一緒に、の時代。「みんな」に加われない異端者は、はじかれた。

しかし、世界で戦う日本人アスリートたちは、みなそれぞれが自分らしい。自分らしくなければ、世界では戦えないことを、きっと彼らは肌で知っている。サッカー日本代表元監督ハリルホジッチ氏の件は、一致団結幻想の日本的なれの果てとも思える。

そういえばかつて、自分探しの旅が流行ったことがあったが、あれも、こうした旧世代的な潮流への反発か。

もしかしたら、いまの日本は、「みんな」の時代から「百花繚乱」の時代へ、歴史的な転換点を迎えているのではないか。

ps.財務省福田淳一事務次官のセクハラ問題。財務省事務次官といえば、東大→国家官僚という日本のヒエラルキー構造のトップだ。国家官僚のなかで財務省はトップの組織だし、事務次官はその組織のトップ。日本は、ものづくりだの、職人気質だの、クールジャパンだのアニメだのといったところで、それらを支える工場労働者やアニメ制作者の給料は安く、ピラミッドの下辺に位置する。ピラミッドの上部は大企業で、さらにその上に中央省庁、財務省事務次官はその最頂部に位置するはずだ。「みんな」の時代というのは、内実は、上下関係が固定化した古臭い構造であって、当然、男性上位が当たり前、女性は構造的にセクハラに苦しんできたわけだから、その構造のトップがセクハラオヤジであることは非常にわかりやすく、また、今回の問題は、この磐石だった上下関係構造が崩壊していくことを明示したものとも考えられる。

※続編:TOKIO山口達也問題と財務省事務次官セクハラ問題(続):「みんな」から「わたし」へ。

「がんばる」と「一揆」、日本人の内向きな志向性

日本人が好んでよく使う「がんばる」には、我慢する、とか、耐え忍ぶ、といったニュアンスが、好意的に込められている。…ということに注目してみる。

がんばる姿が賛美されるのは、我慢したり、耐え忍んだりする姿勢が好ましいからだ。それも、ただ物理的な我慢・忍耐ではなく、いわば「おしん」のように、「社会的」な我慢・忍耐が好ましいとされる。決して、おのれの気の向くままに、好きなように、自由に、自律的に、個性的に、行動すること、ではない。むしろその逆だ。

つまり、日本社会では、個性や自主性を発揮することよりも、個性や自主性を押し殺し、社会が求める既成の価値観に合致させることが求められる。

社会が求める既成の価値観、というのは、要は、親や教師、先輩や上司といった目上の者が求める、「良い子」的なありようである。おのおのの個性よりも、「みんなで」がなにより大事な社会なのであり、だからこそ、「ひとつになろうニッポン」的キャッチフレーズがしきりに愛用されるのだろうこの国では。

で、この国は、「これまでもがんばってきた」ことを、そのアイデンティティとしている。これまでがんばってきて、ここまできた、だからこれからも、がんばっていこう、というのだ。

だが、この国の、少なくとも明治以降の歴史をみるかぎり、これまでがんばってきたからここまできた、とは、あまり思えない。むしろ、がんばった末の敗戦(1945年)であったし、個性よりも「がんばり」を重んじる=変わることを良しとしない保守的かつ他律的なあり方こそが、いまの日本経済の停滞につながっているようにも思える。

一揆についてのこの文章によれば、一揆とは「共同意思」であり、「心を一つに」とか「一致団結」という意味合いであるという。また、「日本人は外部に訴えかける方法を工夫するよりも、集団の内部の意思一致の方法に工夫していた」ともいう。

「ガンバレ、みんなガンバレ」という言葉に込められた、日本人の内向きな志向性は、一朝一夕には変わらないだろう。だから、日本人なんてやめちゃえばいい。

※この記事をもとに書きました↓。

ハリルホジッチの発言から:日本人の歩みが遅いのは「従順ファースト」だから。 - 日本近現代史の空の下で。