うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

ちゃんと怠ける。

昨日書いた「「頑張り」の日本人が「なりゆき任せでなんとかなるさ」を好む理由とは。」の続き。

基本的に、ぼくら日本人はナマケモノだ。でなければ、「なんとかなるさ」とは考えない。

ほんとうの働き者は、自分で「なんとかする」と考え、努力し、達成を目指す。そのためのハードワークをいとわない。

偽者の働き者は、最後は誰かがなんとかしてくれると楽観的に考える。がんばれば、このがんばっている姿を見ている誰かが僕のことを認めてくれると考える甘ったれ小僧だ。

(ぼくは、自分がハードワークしているところを人に見られるのが嫌いだ。みっともないと思っている)

太平洋戦争における日本の戦い方は、まさにこの甘ったれ小僧のようだったと思う。ほんらい、大国に小国が戦いを挑む場合、軍事・外交の両面で、かなりの高等戦略が求められるはずだが、日本の開戦経緯をみると、これがとても甘い。まさに「なんとかなるさ」で飛び込んだ戦争だ。ルーズベルトにハメられたとか謀略論がいまだに言われるが、そもそも日本側の詰めが甘すぎるんであって、「おかあさーん、あの子にハメられたー」とか被害者妄想の前に反省しろ。軍事面だけとっても、陸海軍の戦略、長期戦なのか短期戦なのかも詰められないままの開戦決定だったではないか。第一段作戦後の戦略なき戦局拡大は何だったんだ。中盤省略して戦争後半の全軍特攻化に至る経緯はなんだ。一撃講和論でいくのなら、ではいつどうやって一撃をかまして、それをどう講和に持ち込むのか、作戦と外交を統合させた案があったのか。すべてが「なんとかなるさ」で最後は天皇がなんとかしたってオチじゃないか。なんのためのハードワークだったのだ。なんのための南方飢餓であり、なんのための輸送船沈没であり、なんのための玉砕であり、なんのための空襲被害であり、なんのための沖縄戦・原爆投下・ソ連侵攻であったのだ。小国なら小国なりに知恵をめぐらせて、謀略でもダマシ撃ちでも何でもいいから、大国に勝つための本当の努力をしたのか。残ったのはただ、「ぼくたちはがんばりました」という記憶だけじゃないか。

…つい興奮してしまった。

つまり、ぼくたちは本来的に怠け者であることをちゃんと認めたうえで、ちゃんと怠けることを心がけない限り、歴史は繰り返されるのではないか。

怠けるといったら、戦時中、学生たちも軍需工場で働かされたが、一部の学生はそれをサボった。怠けた。彼らの怠けは正しい。同じ年の兵士が特攻で次々と無駄死にをしていた頃、彼らは命がけでサボった。ぼくは、その「自律的」な行為、自主的思考に基づく行為を尊敬する。日本全体が彼らであったら、無駄な犠牲は防げたし、そもそも、無茶な戦争に突入すること自体がなかったはずだ。

思考停止で「頑張る」よりも、自律的に「怠ける」こともほうが、ちゃんとしてる。

2019-08-05追記:ほろびゆく秩序にぶらさがるのではなく。