さっき書いた記事「昭和史のパラレルワールド:今後「日本人」は失われていく。」で、こう書いた。
日本は「がんばって」大国になったわけではない。いくらがんばろうと、また、がんばらなくても、冷戦という国際情勢下でアメリカが下した現実的な判断がなければ、日本はいまだに「惨めな敗戦国」のままだっただろう。
さらに考えてみた。
日本が明治以来追い求め続けてきた「大国」の座は、主体的につかみとったのではなく、棚ボタ的に貰ったものだ。
それを、当の日本人たちが、自覚しているのか、自覚していないのかはともかくとして。
かりに自覚していたにせよ、その現実は認めたくはない。
じつは、「がんばる」という言葉が、いまの意味で、過剰に用いられるようになったのは、日本に経済大国の自覚が生まれて以後、1970年代以後のことだ。
それは、じつは、この他律的に与えられた「大国」の地位を、あたかも自らが「がんばって」入手したものとみなしたい、という、人びとの願望が、その現象を生んだのではないか。
「がんばる」の本質は、現実逃避なのではないか。
となると、人びとが、「がんばる」とか「がんばれば夢がかなう」とか、現実逃避フレーズのなかに逃げ込んでいるかぎり、状況は絶望的なのではないか。
「がんばる」とは、じつは、絶望的な願望をあらわすフレーズなのではないか。