うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

日本人というアイデンティティの歴史は案外と浅い

今朝の朝日新聞大坂なおみ選手の活躍に関連して、

快進撃を喜びつつ、応援や報道で「日本」や「日本人」が多用されることに違和感を抱く人たちがいる。

との記事を掲載している。

下地ローレンス吉孝氏は、「当たり前で固定的だと思われていた『日本人』が問い直されているのではないか」と語っている。

うん。それは、このブログや、「週刊:日本近現代史の空の下で。」で書いてきたことだ。

ざっくりいうと、日本人というアイデンティティを日本人が持つようになったのは、わりと最近。少なくとも、明治初期において、日本人には日本人というアイデンティティはなかった。原武史『皇后考』(講談社学術文庫2017、p10)によれば、神武から大正までの皇統が確定したのは大正末期だったらしいのだが、その後昭和初期におこったさまざまな事件をみると、このあたりから日本人というアンデンティティが輪郭を持ちはじめてきたのではないかとも思う。その後の、太平洋戦争で敗戦するまで経緯は、アイデンティティ確立の過渡期ではなかったか。このアイデンティティが確立するのは、じつは戦後の高度経済成長期、それも後半以後ではなかったかと思っている。

高度経済成長を1955(昭和30)年~1973(昭和48)年として、その中間地点は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年。日本人に「経済大国」の自覚が生まれ始めたのは、この後だ。

つまり、日本人というアイデンティティが確立してから、まだ半世紀程度しか経っていない。

そんな歴史の浅いアイデンティティ固執するのは、馬鹿らしい。