日本人が好んでよく使う「がんばる」には、我慢する、とか、耐え忍ぶ、といったニュアンスが、好意的に込められている。…ということに注目してみる。
がんばる姿が賛美されるのは、我慢したり、耐え忍んだりする姿勢が好ましいからだ。それも、ただ物理的な我慢・忍耐ではなく、いわば「おしん」のように、「社会的」な我慢・忍耐が好ましいとされる。決して、おのれの気の向くままに、好きなように、自由に、自律的に、個性的に、行動すること、ではない。むしろその逆だ。
つまり、日本社会では、個性や自主性を発揮することよりも、個性や自主性を押し殺し、社会が求める既成の価値観に合致させることが求められる。
社会が求める既成の価値観、というのは、要は、親や教師、先輩や上司といった目上の者が求める、「良い子」的なありようである。おのおのの個性よりも、「みんなで」がなにより大事な社会なのであり、だからこそ、「ひとつになろうニッポン」的キャッチフレーズがしきりに愛用されるのだろうこの国では。
で、この国は、「これまでもがんばってきた」ことを、そのアイデンティティとしている。これまでがんばってきて、ここまできた、だからこれからも、がんばっていこう、というのだ。
だが、この国の、少なくとも明治以降の歴史をみるかぎり、これまでがんばってきたからここまできた、とは、あまり思えない。むしろ、がんばった末の敗戦(1945年)であったし、個性よりも「がんばり」を重んじる=変わることを良しとしない保守的かつ他律的なあり方こそが、いまの日本経済の停滞につながっているようにも思える。
一揆についてのこの文章によれば、一揆とは「共同意思」であり、「心を一つに」とか「一致団結」という意味合いであるという。また、「日本人は外部に訴えかける方法を工夫するよりも、集団の内部の意思一致の方法に工夫していた」ともいう。
「ガンバレ、みんなガンバレ」という言葉に込められた、日本人の内向きな志向性は、一朝一夕には変わらないだろう。だから、日本人なんてやめちゃえばいい。
※この記事をもとに書きました↓。