うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

本当の雑草魂は、頑張らない。

稲垣栄洋『雑草はなぜそこに生えているか』(ちくまプリマー新書、2018年1月)が面白い。

「雑草は、踏まれても踏まれても立ち上がる」と、よく言われるが、じつは、「踏まれた雑草は立ち上がらない」と著者は書く(p179)。

雑草は、踏まれたら立ち上がらない。よく踏まれるところに生えている雑草を見ると、踏まれてもダメージが小さいように、みんな地面に横たわるようにして生えている。
「踏まれたら、立ち上がらない」というのが、本当の雑草魂なのだ。
たくましいイメージのある雑草にしては、あまりにも情けないと思うかもしれない。
しかし、本当にそうだろうか。
そもそも、どうして立ち上がらなければならないのだろう。
雑草にとって、もっとも重要なことは何だろうか。それは、花を咲かせて種子を残すことにある。そうであるとすれば、踏まれても踏まれても立ち上がるというのは、かなり無駄なことである。そんな余分なことにエネルギーを使うよりも、踏まれながらどうやって花を咲かせるかということの方が大切である。〔略〕雑草は踏まれながらも、最大限のエネルギーを使って、花を咲かせ、確実に種子を残すのである。
踏まれても踏まれても立ち上がるやみくもな根性論よりも、ずっとしたたかで、たくましいのである。

たしかに、踏まれた雑草は立ち上がらない。人がよく通り、踏みつける地面の雑草は、低く生えている。また、雑草を短く刈っていると、あまり背を伸ばさなくなる。

で、「雑草のように耐えて頑張れ」という説教についてなんだが。

生き物は、目的に忠実に生きている。生き残る、という、もっとも大事な目的に、忠実に生きている。生き残るために最適化する。踏まれたら立ち上がらないのも、最適化だ。

頑張る、という行為は、多分に、社会的な行為だ。ほんらいの目的のために頑張るというのももちろんあるのだが、それと同等、あるいは、それ以上に、頑張っている姿をアピールするという意味合いが強い行為だ。少なくとも僕はそう思っている。

「雑草のように耐えて頑張る」というのは、所属する社会が、所属する集団が、その姿を、あるべき理想像と考え、それを美しいと考え、所属する成員にそうあるべく要求し、成員がその期待に応えることによって、社会や集団で承認を得る、という、一連の社会的行為だ。

そんな余分なことにエネルギーを使って、日々僕らは暮らしている。

社会や集団を維持するために、余計な時間や手間をかけている。

だから日本社会は非効率で、日本の生産性は低く、僕らは不幸せで、大切なことを、見失ったままなのだ。

…と、思うんだけどなあ。

※「頑張る」については以下メインブログに書きましたんで。

頑張るという美徳:自己犠牲を期待する圧力が時に僕らを縛りつける

「頑張り圧」という悪弊、頑張らないという戦略:提言「楽勝のススメ」

「頑張り圧」が日本社会に定着したのは70年代初頭:思考停止社会のルーツ

「頑張る」は日本人に固有の民族性ではなく戦時中の刷り込みです