うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

教育勅語議論の幻想性

いまもそうだけど、教育勅語が、ときどき、話題になる。

正直、ぼくは教育勅語じたいにあまり興味がない。内容も、目を通したことはあるはずだが、よく覚えていない。ある種の理想を掲げたもので、とくに面白いものでもないし。

興味があるのは、それが話題になるとき、賛成・反対のそれぞれの主張が、いつも一定でワンパターンに感じることだ。

たぶん、教育勅語はある種のアイコン化してるのだろう。

賛成派は、いつも道徳的普遍性みたいなものを言うのだが、それは、社会や家族の「型」みたいなものだ。それが失われているという、敗戦後ずっと言われ続けている主張で、現状への危機感があるのだろうが、そもそも、その「型」がこの国で有益に作用したことが、一度でもあるのだろうか。ただの幻想じゃないのか。

反対派は、いつも軍国主義を持ち出すのだが、軍国主義って、そもそも何だ。根っこにあるのは、大国になってもっといい暮らしがしたいっていう、庶民の願望だったとするなら、戦後高度経済成長で経済「大国」になったのも、ぶっちゃけ大差ないじゃないか。教育勅語軍国主義って、ただの幻想じゃないのか。

…というわけで、ふたつの相容れない幻想がバトルってるって話。

それより、幻想の生成と普及定着のプロセスチーズを解明したほうが、有益だし、面白い。

日本人世代&経済的「領土」についてメモ

…というのは、具体的にいうと、昭和元年から、昭和50年ぐらいの間に生まれた世代のことになるだろう。

ま、ざっくり、昭和世代だ。

頑張れば夢がかなうとの神話を信じられた昭和生まれの世代こそが、「日本人」なんだ。

 

…ということと関係なく単にメモだけど、1945年敗戦までの日本の領土は今よりも広かったわけだけど、経済的な「領土」(といっていいのかどうか)はそれよりもかなり広かった。朝日新聞の中国進出だとか、日本交通公社電通も大陸進出してたし。それが敗戦で一気に失われて、大陸に散らばってた社員も総出で帰国したわけだ。人はどんどん戻ってくるけどろくな産業はないし、だいいち国家としての主権がないし、外務省の役人はすっかり意気消沈してるし、というのが占領下日本でありました。

日本人という輪郭

現在の「日本人」という輪郭が確立したのは、1945年の敗戦後のことだ。

それまでは、朝鮮とかも「日本」だったからね。満州など含めて、「大日本」といった国家の輪郭だった。

敗戦で、「大日本」は、「小日本」になった。いまのアイデンティティは、戦後の小日本時代のものだ。

また、戦後占領期にはアイデンティティは確立していない。国家主権も奪われた状況下で、アイデンティティも何もあるものか。

つまり、早くても、アイデンティティ確立は、日本が独立を回復した1952(昭和27)年よりも後となる。

この頃、「がんばる」は、まだ、必ずしも今のような意味で使われてはいなかった。当時のニュアンスで言うと、富田林署逃走事件の樋田容疑者なんかは「がんばって逃げ続けた」とかなるだろうか。

(つづく)

「日本人という世代」についての最初の考察。

ここのところ続けて書いている内容について。

つまりはだ、「日本人」というアイデンティティは、結局のところ、世代なんだ。

ある世代のアイデンティティが、「日本人」なんだ。

もちろん、日本人はずっと前からこの国に暮らしているんだけどさ、でも、日本人って自覚をもちはじめたのは早くても明治以降で。

…という考えを、今後、進めてみようと思う。

「がんばる」とは、絶望的な願望をあらわすフレーズか。

さっき書いた記事「昭和史のパラレルワールド:今後「日本人」は失われていく。」で、こう書いた。

日本は「がんばって」大国になったわけではない。いくらがんばろうと、また、がんばらなくても、冷戦という国際情勢下でアメリカが下した現実的な判断がなければ、日本はいまだに「惨めな敗戦国」のままだっただろう。

 さらに考えてみた。

日本が明治以来追い求め続けてきた「大国」の座は、主体的につかみとったのではなく、棚ボタ的に貰ったものだ。

それを、当の日本人たちが、自覚しているのか、自覚していないのかはともかくとして。

かりに自覚していたにせよ、その現実は認めたくはない。

じつは、「がんばる」という言葉が、いまの意味で、過剰に用いられるようになったのは、日本に経済大国の自覚が生まれて以後、1970年代以後のことだ。

それは、じつは、この他律的に与えられた「大国」の地位を、あたかも自らが「がんばって」入手したものとみなしたい、という、人びとの願望が、その現象を生んだのではないか。

「がんばる」の本質は、現実逃避なのではないか。

となると、人びとが、「がんばる」とか「がんばれば夢がかなう」とか、現実逃避フレーズのなかに逃げ込んでいるかぎり、状況は絶望的なのではないか。

「がんばる」とは、じつは、絶望的な願望をあらわすフレーズなのではないか。

昭和史のパラレルワールド:今後「日本人」は失われていく。

いまの「日本人」のアイデンティティ形成の過程をみていくうえで、昭和史は決定的に重要だ。アイデンティティの萌芽がうまれたのは昭和初期で、アイデンティティが確立したのは昭和後期だから。平成は、その確立された強固なアイデンティティの弊害に悩まされ、それを克服しようともがいた30年間だったのではないか。

昭和の約60年間をもって確立されたものが、平成の30年をもってしても、いまだ克服できていない。

そのアイデンティティの核は、「大国の自覚」だ。

明治以来の日本は、ひたすら、「大国」を目指して突っ走ってきた。軍事大国としての試みは大失敗に終わり、その後はアメリカに守られながら、経済大国として成功を収めた。

戦後占領期の日本にはさまざまな選択肢があったが、もしアメリカが、初期の厳しい占領対策を変えなかったら、日本は経済大国になることはなかった。よくて軽工業国、あるいは農業国として、貧困にあえぎながら、低い経済成長をずっと続けていた可能性もあった。

どれだけ日本人が「がんばっても」、だ。

つまり、日本は「がんばって」大国になったわけではない。いくらがんばろうと、また、がんばらなくても、冷戦という国際情勢下でアメリカが下した現実的な判断がなければ、日本はいまだに「惨めな敗戦国」のままだっただろう。

それが現実だ。

アイデンティティは、自分が立っている、その土台に、大きく左右される。もしいまの日本が、低成長の農業国、惨めな敗戦国のままであったら、僕らのアイデンティティは、どうだっただろうか。その「パラレルワールド」を想像してみる。自信をもてる歴史がない以上、そのアイデンティティも、か細く、頼りないものだったはずだ。いいかえると、「日本人のアイデンティティ」なんて頼りないものに依存するのではなく、「おれはおれ的なアイデンティティ」で、各自が生きていたはずだ。

「正解」のないその社会は、単一性・画一性よりも、多様性を認める社会であったはずだ。

そう考えていくと、日本が明治以来憧れ続けてきた「大国」の座を得たことで失われたものが、どれだけ大きかったかがわかる。

と同時に、日本社会がこれから向かうべき方向性も、明白になる。

ぼくらは、どんどん、「日本人としてのアイデンティティ」を喪失していく。多くの外国人を受け入れ、多様なあり方、多様な価値観を受容する社会になっていく。なっていかざるをえない。

そうして日本は、「普通の国」になっていく。

日本人というアイデンティティの歴史は案外と浅い

今朝の朝日新聞大坂なおみ選手の活躍に関連して、

快進撃を喜びつつ、応援や報道で「日本」や「日本人」が多用されることに違和感を抱く人たちがいる。

との記事を掲載している。

下地ローレンス吉孝氏は、「当たり前で固定的だと思われていた『日本人』が問い直されているのではないか」と語っている。

うん。それは、このブログや、「週刊:日本近現代史の空の下で。」で書いてきたことだ。

ざっくりいうと、日本人というアイデンティティを日本人が持つようになったのは、わりと最近。少なくとも、明治初期において、日本人には日本人というアイデンティティはなかった。原武史『皇后考』(講談社学術文庫2017、p10)によれば、神武から大正までの皇統が確定したのは大正末期だったらしいのだが、その後昭和初期におこったさまざまな事件をみると、このあたりから日本人というアンデンティティが輪郭を持ちはじめてきたのではないかとも思う。その後の、太平洋戦争で敗戦するまで経緯は、アイデンティティ確立の過渡期ではなかったか。このアイデンティティが確立するのは、じつは戦後の高度経済成長期、それも後半以後ではなかったかと思っている。

高度経済成長を1955(昭和30)年~1973(昭和48)年として、その中間地点は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年。日本人に「経済大国」の自覚が生まれ始めたのは、この後だ。

つまり、日本人というアイデンティティが確立してから、まだ半世紀程度しか経っていない。

そんな歴史の浅いアイデンティティ固執するのは、馬鹿らしい。