うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

「みんな」の時代から「百花繚乱」の時代へ(TOKIO山口達也と財務省事務次官セクハラ)

TOKIOの山口達也が女子高校生への強制わいせつ容疑で書類送検された件。印象的だったのは、それについて、メンバーの国分太一、リーダーの城島茂、山口をよく知る先輩の東山紀之と、ジャニーズのタレント達が、それぞれの言葉で考えを語ったことだった。

ジャニーズって、前からこんなだっけか?

事務所側にすれば、所属タレント達がフリートークされるのは、困るんじゃないかと思う。さらに面倒なことになりかねないし。だけど、彼らは生放送で、自分自身の言葉で語っていたように見えたし、それぞれが、それぞれらしく感じた。ポジショントークの面もあったかもしれないけど。

かつて芸能タレント事務所というのは、芸能人という幻想を作りあげ、それを維持することで生計を立てていたはずだが、いまでは、各自が自分らしく、自分のカラーで語るほうが、事務所としても、ビジネス上、得策だと考えているのだろう(か)。

春の園遊会で、平昌オリンピックのスピードスケート女子、小平奈緒選手や髙木菜那選手、髙木美帆選手らが、それぞれお好みの振袖で出席し、「それぞれ自分らしい色で」と、自分らしさを語っていた。平昌オリンピックでは、選手団の主将をつとめた小平選手は、結団式で「百花繚乱」という言葉を掲げたが、これも、自分らしさや個性を発揮することを目指した表現だ。

何がいいたいのかというと、この国ではこれまで、これまでというのは約百年近くにわたって、自分らしさや個性より、所属する社会や集団内の調和=一致団結、心を一つに(ちくま学芸文庫、呉座勇一『一揆の原理』p76-77)が優先されてきた。おそらくそれは、開国して近代化をめざす日本が、欧米列強にのみこまれないため、追いつき追い越すため、自らに課したことであったのだろう。日本は長らく、欧米列強に対し、国をあげた「一揆」の状態だったのだ。日清・日露の両戦争を通して日本国のアイデンティティは固まり、さらに、日中戦争・太平洋戦争でその「一揆」は頂点に達したが、結果、敗戦に終わった。が、戦後占領期・高度経済成長期も、「一揆」モードは継続する。ほんとうは、占領期の日本は内実バラバラであったし、高度経済成長期も、豊かになりたいという各自の欲望でつき進んでいった時代なので、「一揆」とはいえないのだが、でも、「日本人が火の玉となって一心不乱に突き進んだ結果の経済大国」というストーリーを信じている人は多いし、おそらく、タコツボ化したムラ社会ならぬ企業社会において、各部、各課の気分としては「火の玉」だったかもしれない。そして「一揆」は失敗の歴史から成功の歴史へと書き換えられ、みずからの成功神話に日本人は酔った。

そして信じた。おれたちは一致団結すれば強いんだと。

その誤った「成功への方程式」がfixしたのは、1970年代あたりであろうと思う。ド根性、頑張る、が一世風靡した頃だ。「みんな」の時代といってもいいだろう。自分らしさよりも、みんなで一緒に、の時代。「みんな」に加われない異端者は、はじかれた。

しかし、世界で戦う日本人アスリートたちは、みなそれぞれが自分らしい。自分らしくなければ、世界では戦えないことを、きっと彼らは肌で知っている。サッカー日本代表元監督ハリルホジッチ氏の件は、一致団結幻想の日本的なれの果てとも思える。

そういえばかつて、自分探しの旅が流行ったことがあったが、あれも、こうした旧世代的な潮流への反発か。

もしかしたら、いまの日本は、「みんな」の時代から「百花繚乱」の時代へ、歴史的な転換点を迎えているのではないか。

ps.財務省福田淳一事務次官のセクハラ問題。財務省事務次官といえば、東大→国家官僚という日本のヒエラルキー構造のトップだ。国家官僚のなかで財務省はトップの組織だし、事務次官はその組織のトップ。日本は、ものづくりだの、職人気質だの、クールジャパンだのアニメだのといったところで、それらを支える工場労働者やアニメ制作者の給料は安く、ピラミッドの下辺に位置する。ピラミッドの上部は大企業で、さらにその上に中央省庁、財務省事務次官はその最頂部に位置するはずだ。「みんな」の時代というのは、内実は、上下関係が固定化した古臭い構造であって、当然、男性上位が当たり前、女性は構造的にセクハラに苦しんできたわけだから、その構造のトップがセクハラオヤジであることは非常にわかりやすく、また、今回の問題は、この磐石だった上下関係構造が崩壊していくことを明示したものとも考えられる。

※続編:TOKIO山口達也問題と財務省事務次官セクハラ問題(続):「みんな」から「わたし」へ。

「がんばる」と「一揆」、日本人の内向きな志向性

日本人が好んでよく使う「がんばる」には、我慢する、とか、耐え忍ぶ、といったニュアンスが、好意的に込められている。…ということに注目してみる。

がんばる姿が賛美されるのは、我慢したり、耐え忍んだりする姿勢が好ましいからだ。それも、ただ物理的な我慢・忍耐ではなく、いわば「おしん」のように、「社会的」な我慢・忍耐が好ましいとされる。決して、おのれの気の向くままに、好きなように、自由に、自律的に、個性的に、行動すること、ではない。むしろその逆だ。

つまり、日本社会では、個性や自主性を発揮することよりも、個性や自主性を押し殺し、社会が求める既成の価値観に合致させることが求められる。

社会が求める既成の価値観、というのは、要は、親や教師、先輩や上司といった目上の者が求める、「良い子」的なありようである。おのおのの個性よりも、「みんなで」がなにより大事な社会なのであり、だからこそ、「ひとつになろうニッポン」的キャッチフレーズがしきりに愛用されるのだろうこの国では。

で、この国は、「これまでもがんばってきた」ことを、そのアイデンティティとしている。これまでがんばってきて、ここまできた、だからこれからも、がんばっていこう、というのだ。

だが、この国の、少なくとも明治以降の歴史をみるかぎり、これまでがんばってきたからここまできた、とは、あまり思えない。むしろ、がんばった末の敗戦(1945年)であったし、個性よりも「がんばり」を重んじる=変わることを良しとしない保守的かつ他律的なあり方こそが、いまの日本経済の停滞につながっているようにも思える。

一揆についてのこの文章によれば、一揆とは「共同意思」であり、「心を一つに」とか「一致団結」という意味合いであるという。また、「日本人は外部に訴えかける方法を工夫するよりも、集団の内部の意思一致の方法に工夫していた」ともいう。

「ガンバレ、みんなガンバレ」という言葉に込められた、日本人の内向きな志向性は、一朝一夕には変わらないだろう。だから、日本人なんてやめちゃえばいい。

※この記事をもとに書きました↓。

ハリルホジッチの発言から:日本人の歩みが遅いのは「従順ファースト」だから。 - 日本近現代史の空の下で。

ルパン三世的キャラが日本人に好まれる理由

宮崎駿の映画初監督作品にしてアニメ史上に残る名作、「ルパン三世 カリオストロの城」を見ていて思ったこと。

ルパン三世は、狙った獲物は必ず仕留める泥棒だ。その仕事ぶりは執拗で、徹底している。一方、人間性はきわめてあっさりとしていて、「あばよ!」と去っていく。

仕事ぶりと人間性が、矛盾して両立している。

これは、明治以来、欧米に追いつけ追い越せのキャッチアップを標榜してきた近代日本が目指した、欧米なみの執拗さと、元来の日本人がもっている淡白ぶりを、ルパン三世というキャラクターで成立させたもので、日本人のおそらく理想的なありかたがそこに凝縮されている。

だからルパン三世はぼくらにとって面白いのだろう。

自分たちに都合の良い主張は歓迎されるという当たり前の話。

大前治という方が書いた、「焼夷弾は手掴み、空襲は大丈夫…国民は「東京大空襲」をどう迎えたか」や「10万人死亡「東京大空襲」の翌朝、政府が何と言ったかご存じですか」が話題沸騰らしいので、それについてのコメントをいちおう書いておく。

全体的には、まあだいたい、そんな感じだと思います。厳しく言ってしまうと、そこに提示された視点もファクトも、これまで戦後70年以上もの間、さんざん言われてきたことのような、言い古された感があって、僕には新発見といえるものはなかった。

それより、この方が、政府と国民を対立的にとらえているというか、戦争遂行者たる政府と、その犠牲になった国民という、コントラストのはっきりした構図で説明している点に、違和感を感じた。また、いまさら感の漂うこうした記事が話題沸騰していることには、正直がっかりした。この程度でいいのかー的な。これじゃあ、僕がここで書いたりしてることは決してメジャーになれないなあ、僕的にはかなり誠実に、大事なことを書いてるつもりなのになあ、と思った。

国民は政府や軍部にだまされた、という主張は、戦後すぐから、一貫してみられるものだ。軍、とくに陸軍にすべての責任を押しつけて切り捨てる一方で、天皇の責任は問わない、とするGHQの方針と合致したこともあって、この主張は広く浸透した。大前氏の主張も、その線からなされている。

が、これも古くからなされているのだが、「伊丹万作 戦争責任者の問題」に代表される主張がある。ちょっと長いけど一部引用。

多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる。多くの人はだましたものとだまされたものとの区別は、はつきりしていると思つているようであるが、それが実は錯覚らしいのである。たとえば、民間のものは軍や官にだまされたと思つているが、軍や官の中へはいればみな上のほうをさして、上からだまされたというだろう。上のほうへ行けば、さらにもつと上のほうからだまされたというにきまつている。すると、最後にはたつた一人か二人の人間が残る勘定になるが、いくら何でも、わずか一人や二人の智慧で一億の人間がだませるわけのものではない。
 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである。しかもそれは、「だまし」の専門家と「だまされ」の専門家とに劃然と分れていたわけではなく、いま、一人の人間がだれかにだまされると、次の瞬間には、もうその男が別のだれかをつかまえてだますというようなことを際限なくくりかえしていたので、つまり日本人全体が夢中になつて互にだましたりだまされたりしていたのだろうと思う。
 このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたような民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば直ぐにわかることである。
 たとえば、最も手近な服装の問題にしても、ゲートルを巻かなければ門から一歩も出られないようなこつけいなことにしてしまつたのは、政府でも官庁でもなく、むしろ国民自身だつたのである。私のような病人は、ついに一度もあの醜い戦闘帽というものを持たずにすんだが、たまに外出するとき、普通のあり合わせの帽子をかぶつて出ると、たちまち国賊を見つけたような憎悪の眼を光らせたのは、だれでもない、親愛なる同胞諸君であつたことを私は忘れない。もともと、服装は、実用的要求に幾分かの美的要求が結合したものであつて、思想的表現ではないのである。しかるに我が同胞諸君は、服装をもつて唯一の思想的表現なりと勘違いしたか、そうでなかつたら思想をカムフラージュする最も簡易な隠れ蓑としてそれを愛用したのであろう。そしてたまたま服装をその本来の意味に扱つている人間を見ると、彼らは眉を逆立てて憤慨するか、ないしは、眉を逆立てる演技をして見せることによつて、自分の立場の保鞏につとめていたのであろう。
 少なくとも戦争の期間をつうじて、だれが一番直接に、そして連続的に我々を圧迫しつづけたか、苦しめつづけたかということを考えるとき、だれの記憶にも直ぐ蘇つてくるのは、直ぐ近所の小商人の顔であり、隣組長や町会長の顔であり、あるいは郊外の百姓の顔であり、あるいは区役所や郵便局や交通機関や配給機関などの小役人や雇員や労働者であり、あるいは学校の先生であり、といつたように、我々が日常的な生活を営むうえにおいていやでも接触しなければならない、あらゆる身近な人々であつたということはいつたい何を意味するのであろうか。

こちらはあまり浸透していない。理由は、多くの国民にとって都合が悪いからだ。都合が悪い主張を、国民は受け入れない。それが事実であったとしても。

こういう「わかりやすい」主張が、いまだに人々の支持を広く得ているのだなあ、という事実に、ぼくはとても落胆をしました。

追記2点。

1:大前氏の言う「フェイクニュース」を、国民がどれだけ信じていたか。これは本間報告書(リンク先記事では東京大空襲あたりの記述はまだ書いてないけど)などである程度は読み取れる。ぶっちゃけ、この頃の「権威」はかなり失墜していた。拙著『終戦史』p184「「陸軍という権威」は既に地に堕ちていた」から以下引用。

 表面上はあくまでも勇ましい陸軍の内情が、本土決戦前にすでに「カカシ」と化していたことは既述の通りだが、それを見つめる国民の視線も怒りに満ちたものに変容していたようである。
 3月6日、海軍の高木惣吉は内務次官や警保局長からこんなことを言われている。
「国民の不満、不平、罹災民の憤満、軍部特にA〔陸軍のこと〕に対する憎悪心は、最近の防衛演習、各地防衛措置に於けるA末梢の横暴(食糧の独占、風儀攪乱等)により急「テンポ」に増大しあり。先日、神田の被爆火災のとき、A政務次官が見舞の為現場に臨みたるところ(Aの軍属の服装にて)、その自動車の黄色旗〔将官旗〕に唾を吐かけたるものが三、四名出でたる事実あり。以てその一端を推すに足る」
 また、高木が「夫れを善導するが現内務当局の責任ならずや」と問いかけたのに対し、彼らは「その通りなるが実際は熱意を失いつつあり」と答えている(註185=『高木惣吉 日記と情報』下p819)。
 また、小磯内閣時に内閣の私的顧問として本間雅晴陸軍中将が内外のさまざまな動向を広く収集、報告していた、いわゆる「本間報告書」と呼ばれる史料があるが、それによれば、3月10日の東京大空襲後の人心の悪化をこう伝えている。
「一、帝都空襲被害と人心悪化の兆候
1 電車に乗れる陸軍中佐、陸軍少佐の某両名に対し同乗者の2、3の者は大声高談して当てつけるが如く罵倒せり。
甲「吾々国民は斯るボロボロ服装で我慢しているのに、軍人の服装だけが代用品なしではないか」
乙「一番癪に障るのは軍人の綺麗な長靴だ。殊に最近将校が書類入の鞄を抱込んでいるのは武官が文官に堕落した証左だ」
丙「被害地を高級自動車で乗回し視察するのは上級軍人ではないか。彼等は暖衣飽食して来たから、今日の様に戦争は敗けて来たのだ」(註186=「情報」第72号(3.16)(「本間報告書」(『法律研究所報』八幡大学法律研究所、2号、1968年3月)p265~266))
 このように、陸軍の権威はすでに地に堕ちていた。

2:小役人や下っ端軍人の言動をいかに批判しようが、彼らは所詮は一官僚にすぎず、国が戦争をあくまでも続けるとしている以上、それに沿ったことしか言えないしできない。一官僚の勇気ある言動を期待したいにしても、本筋ではない。

戦争遂行者とは、はたして誰だったのか。小磯首相か?いやいや、小磯はそんなタマじゃない。結局のところ、大元帥たる昭和天皇が継戦意志を捨てないかぎり、戦争は終わらないのだ。史料から確認できる歴史的事実もそうだ。それに触れないで、やれ軍部の暴走だの、為政者たちの無責任だのと責めたところで、的外れではないか。

さらに追記1点。この問題の焦点は、「平和≒戦争:「戦争は絶対にダメ」は、逆に戦争へのエンジンとなりうる」で書いたようなことかも。つまり、体制が変わり、指導者が変わっても、僕ら国民が変わらない限り、また同じことが繰り返されるであろうということ。

まあ、水戸黄門とか、「私、失敗しないので」とか、毎度の鉄板モノが安定的な人気を誇るこの国だから、結局なにも変わらないんだろうなあと絶望的な気分になった。

(この稿は、いずれ改めて、こっちに書くかも)

「固定概念に縛られ結論ありきの日本人があまりにも多い」のは何故か。

固定概念に縛られ結論ありきの日本人があまりにも多いからです。

と、宋文洲氏がアメリカ・リスクに鈍感な日本人」で書いていました。

なぜでしょう。それは、そのほうがラクで、磐石(のつもり)の価値観を揺さぶられることがないから安心だからではないか。根本的に考えるのが面倒だからではないか。思考を外部依存して、ただただ、毎日頑張ってるだけでいい暮らしをしていきたいと、ずいぶん都合のいいことを考えているからではないか。

ま、そんなんじゃやっていけないんだけど、困ったら国になんとかしてもらおうとか、まあなんとかなるだろうとか、けっこうテキトーで無責任は価値観にこの国は支配されている。

ほんとうに大事なことは、この国では話し合われない。

104歳の篠田桃紅さんが語る「デフォルトの日本人像」」で書いたように、この国は、「何とかなるさ」という考え方に支配されている。

何とかなるし、ダメなものはダメだから、どうしてもなんとかしようという気が起こらない。なりゆきまかせ。

日々、いろんなニュースが流れ、人々は、やれ芸能人の不倫がどうのと、他人のプライバシーをネタに世間話に花を咲かせたりしている。

ほんとうに大事なことはスルーされる。

例)とある非営利団体の年次総会での会計報告。収入よりも支出が多い。明らかに多い。持っている資金を取り崩している。数年経ったら回らなくなる。という報告がなされているにもかかわらず、総会はつつがなく進む。総会が終わったあと、各所でひそひそ話が始まる。おい、どうすんだ、と。

あれは衝撃的だったが、しかし、よくある景色を目にした気もした。

この国では、万事そうやって、危機的な状況を目の前にして、つつがなく物事が進行していく。事態から背を向け、自分は関係ないやと、日々の業務に逃避する。

昭和20年の終戦にいたる一年間も、この国はそうやって、すでに陥っている危機的状況を直面することなく、無為に過ごした。

 

ガンバってるうちは、ダメじゃねえの?

ガンバル、ガンバレ、ってみんな好きだけど、それって、具体的にどーゆーこと言うの?

全力を尽くして努力を続ける、あきらめるな、って感じを指すんだろうと思うけど、じゃあ、具体的にどうなのさ、という話で。

全力を出すとか、努力するとか、あきらめないとか、それって、当たり前の話じゃん。あえて言うほどのことじゃないよね。

んで、それでもさらにガンバレ、っていうことになるとさ、じゃあ、不眠不休でやれってこと?徹夜で打ち込んでる姿ってすばらしいよねとか賞賛しちゃうわけ?ホントにむちゃくちゃがんばったら、人間、過労死してしまうよね。それがすばらしいわけ?ブラック賞賛なわけ?

という極論をすすめていきますと、結局のところ、ガンバル、ガンバレ、っていうのは、具体性に乏しい、空虚な建前にすぎないでしょう、ってなる。

また、それがかりに相対的なものだったとすると、当然、世の中には、200%ぐらいがんばってる人から、1%しかがんばってない人まで、いろいろいるはずなのに、じゃあなぜみんな口をそろえてガンバってるって言うわけさ。

あるいはそれが絶対的なものだったとすると、それは本人の主観しだいだから、自分ががんばってると思えばがんばってるんだってことになって。

ここで書いたように、椎名誠氏は、「頑張れ」っていう言葉が大嫌いで、それを、「全身に力をこめて、鬼のような形相」って表現してるんだけど、なんかさ、それって、ボクがんばってまちゅ、って言い訳ポーズだよね。

ガンバってるうちは、ダメじゃねえの?