うにゃにゃ通信

日本近現代史系公開めも書き

ドラマ「チア☆ダン」に込められたメッセージ

民放の娯楽系ドラマには、ときどき、はっとさせられる。娯楽なのに、すごく現代的なメッセージを、ぶちこんでくることがある。

いま放送中のドラマ「チア☆ダン」、おととい7月20日放送(第二回)の一節。

山本舞香演じる柴田茉希が、「人にあわせて踊るとか、大嫌い」と言うと、石井杏奈演じる桐生汐里が「わかる。私も嫌い」と言う。それに土屋太鳳演じる藤谷わかばが「えっ!」と驚いて汐里を見ると、汐里は「個性を殺して、みんなに合わせるとか、大嫌い」「チアダンスには向いてないって、何度も言われた」と続ける。

かつて、たとえば1970年頃に一世を風靡した学園ドラマでは、こうはならない。「みんなのために」全力でプレーする姿が感動を呼んだのだが、いまじゃそんなの、息苦しくて。同調圧力に押しつぶされそうになっている若い世代に送るエールは、「自分のために」「自分らしく」だ。

時代の潮目はすでに変わっている。既存社会が規定したガチガチの価値観、全体に奉仕する個という窮屈な関係性、所属社会で承認を得るために殺される個性、それらはすでに過去の遺物となり始めている。

そして、おじさん・おばさん達は、若い彼らにぶらさがるのでなく、彼らがフルに自分らしさを発揮できるように手助けをするべきだ。

こうして僕らは「日本人」を卒業していく。

きのうのロシアW杯初戦、日本代表はコロンビア代表に勝った。まさか勝つとは思わなかったけど、90分を通して、日本代表のパフォーマンスは良かった。たぶん、これまでW杯本選で見た日本代表の試合のなかで、最も良い試合だった、というより、やっと、まともな試合を見た。日本代表はW杯でまともに戦っていた。

日本代表は世界でまともに戦える。

…という、考えてみればごく当たり前のことを、僕らは昨夜、目にした。

それは、日本人の愛国心を盛り上げる。と同時に、日本がワールドスタンダードに近づけば近づくほど、日本は特殊な国から普通の国になっていく。いまや世界で唯一元号を使う国、「国家および国民統合の象徴としての天皇」が憲法第1条に規定された国、日本の特殊性は薄れていくだろう。

かつて坂口安吾は「日本精神も今日では必然的に世界精神に結びついてゐる。また結びつかざるを得ないのである」と書いた。世界で活躍する日本人は今後、どんどん増えていく。それは日本人にとって誇らしげなことであると同時に、僕らが日本に拘泥する必然性が薄れていく。

おそらく、「日本人」というアイデンティティは、一時的、過渡的なものなのだ。司馬遼太郎は、幕末には「日本人は実在しなかった」と書いている。「日本人」とは、たかだか150年の歴史でしかない。

今後、僕らは「日本人」を卒業し、「世界人」になっていく。

誰のための猛練習か→目上への服従

日大アメフット部問題の続き。

昨夜のテレ東の「フットブレイン(FOOT×BRAIN)」に、スノーボードパラレル大回転・ソチ五輪銀メダリストの竹内智香さんが出ていて、興味深かった。竹内さんはスイス代表チームと一緒に練習をしていたときのことを振り返って、スイスチームの練習が短いことに驚き、1週間もオフなんて、と思ったが、「こちらのやり方で一度やってみたら」と言われてやってみたら、結果、そのほうが集中が増して成績が飛躍的に伸びたのだという(←メモとってないので記憶)。同様のことを別の記事でも語っていたので以下引用。

スイスチームはオフがすごく長い。雪上を滑る練習の本数があまりに少ないのです。「たくさん練習することが結果につながる」と考える日本の環境とはまったく違いました。また、日本ではスポーツの世界は縦社会。でもスイスでは、コーチは私が競技に集中するために、身の回りのことはコーチが全部やってくれます。練習も押しつけてくるのではなく、私の考えを聞いてくれる。「こんなにいい環境で競技を続けられる国があったんだ、もっと早く来ていれば、もっと早くにトップ選手になれたかもしれない」と、一時は国籍を変えることも考えました。[五輪銀・竹内智香が語る海外挑戦の意義 スイスで学んだ「勝ちにいく」精神 - スポーツナビ]

 伝統的(?)な日本の考え方は、「練習は嘘をつかない」ですが、スイスチームの考え方はそうではないようです。おそらくそれが世界標準なのでしょう。武井壮ダルビッシュ有は「練習は嘘つくよ」と言っているようです。

竹内さんの「もっと早く来ていれば、もっと早くにトップ選手になれたかも」というのは、つまり、日本の「非合理的な縦社会」では、その猛練習は、早く上達するためというより、別の目的のために浪費されている、ということを意味するのでしょう。

誰のための猛練習か。それは、目上の存在、先輩や監督に服従するための猛練習なのでしょう。

ラグビー日本代表のヘッドコーチだったエディ・ジョーンズが、「日本のラグビー文化は、パフォーマンスをするというところではありませんでした。高校、大学、そしてトップリーグチームまでもがそういう文化です。高いレベルでパフォーマンスをするための練習をしていない。規律を守らせるために、従順にさせるために練習をしているだけなので勝てない[link]」と語っていたことにも通じます。

これ、日本の学校で運動部系の部活動をやってた人なら、わかるはずです。

日大アメフット部問題:絶対無比の権力者としての「天皇」がまかり通る日本社会

誰かが誰かを意のままにする、服従させる、そしてそれに従順なひと達、というあり方は、前近代的で、自立・自律した個人のあり方とは、かけ離れている。

たとえば日大アメフット部の悪質タックル問題。

アメリカンフットボールの日大と関学大の定期戦で悪質な反則行為があった問題で、危険なタックルをした日大DLの選手は、内田正人監督の指示があったと周囲に話していることが16日、分かった。同選手は、退部の意向を示しており、「『(反則を)やるなら(試合に)出してやる』と監督から言われた」と語っているという。
〔略〕
この日、無防備関学大QBに背後からタックルした日大DLは「『(反則を)やるなら(試合に)出してやる』と監督から言われた」と話していることが判明した。
大関係者によると、反則を犯した選手は、下級生の頃から主力としてプレー。しかし、最近は内田監督から精神面で苦言をていされ「干されている状態だった」と話す関係者もいる。6日の試合前には、家庭の事情で約1週間、練習を欠席。定期戦前に監督から「やるなら出す」と、反則行為を条件に出場機会が与えられたという。
[日刊スポーツ2018年5月17日8時49分:日大アメフト監督が指示「反則やるなら出してやる」]

真偽は今後明らかになるだろう。この記事で書かれていることの信憑性も定かではないが、しかし、記者はおそらく、きちんと取材をしたうえで確信をもってこの記事を書いているように感じたし、そもそも、体育会的な集団では、こうした事態は充分起こりうることだろう。

こうした事態とは、監督が選手に反則を指示した、ということではなく、監督が選手に、ありえない指示を出し、選手がそれに従った、という事態だ。服従、従順の関係性だ。

どんな組織、集団であれ、上に立つ者が絶対、ということは、本来ありえないはずだ。人と人との関係性は、そんな不条理で暴力的なものであってはならない。なのに、この国では、いまだに、そんな関係性が、大手をふってまかり通っている。

いわゆる、比喩的な表現としての「天皇」の存在だ。

「○○○の天皇」などと、企業・組織や一定のコミュニティの中で絶対無比の権力や影響力を持つ特定の人物を指す表現として用いられることもある。類似語にワンマン。[link]

 いたるところに「天皇」がいる。当の天皇は戦後新憲法で象徴的存在となり、日本社会で絶対無比の権力を持つ存在ではなくなったのに。そして、おそらく今上天皇も、そんな「天皇」ではない、憲法が規定する象徴としての存在を果たそうとしているのに、いまだに古い「天皇」がはびこっている、日本という国。

「未来の私は、がんばった私で出来ている」のは、僕は嫌だ。

電車の車内吊り広告に、Gabaの「未来の私は、がんばった私で出来ている。」というコピーを見た。

ちょっと前の「人は、がんばりたい生きものだから。」といい、広告には「がんばる」を肯定的にとらえたコピーがしばしば登場するのは、これだけ日常生活に浸透しまくっているワードだし、好きなひともいるから、しょうがないけど。

僕なら、「未来の私は、夢中になった私で出来ている。」のほうがいい。「がんばった私」って、言い訳くさいというか、「これだけがんばったのよ私!」的なアピールがハンパない感じがして。

「従順な人々の国」の成立過程は?

現代日本社会は、従順な人々によって主に構成されている。おそらく今後、大きく変わっていくだろうが、いまのところ基本線はそうだ。

従順な人々の価値観はきわめて内向きで、既存社会体制とそれを支える価値観を受け容れ、「上」には無条件に従う。つべこべ言わない。歯向かわない。敵と戦うよりも、絆の保持に熱心だ。

さて、こうした気質は、日本人固有のものではない。この百年の間、この社会のなかで熟成されてきたものだ。

この百年間、日本人の気質に大きな影響を与えたのは、大きくは2つ、戦争という失敗体験と、高度経済成長という成功体験だ。と考えると、「従順な人々の国」が成立したのは、高度経済成長期の終盤以後、1970年代と考えられる。

その詳細を、つぶさに点検しなくては。

TOKIO山口達也問題と財務省事務次官セクハラ問題(続):「みんな」から「わたし」へ。

前回の続き。

TOKIO山口達也問題と、財務省事務次官セクハラ問題というのは、同根か。女性に対するわいせつ行為/セクハラ発言ということだけでなしに。

芸能界トップのアイドル事務所所属タレントが、おそらくはその「権威」を存分に行使した行い。官僚トップの財務省事務次官が、やはりその「権威」を存分に行使した行い。いずれも、本人もしくは家族の勇断なしには、おそらく闇に葬られていたであろうこと。そして、一部で指摘されているように、いずれも、おそらくは初犯ではなく、これまで闇に葬られたであろう類似の行いが複数あったであろうと推測されていること。

それぞれ、これまで磐石と思われていた業界内のピラミッド構造が崩壊しつつあることを、この2つの事例は示している。

そしてそれは何を意味するのか。

旧世代の価値観、行動規範の根底にあった「タテマエ」が経年劣化し、「みんなの時代」から「わたしの時代」へ、新旧世代間の価値観が激しく軋轢を起こしているのではないか。

「みんな」のために、「わたし」を犠牲にしてきた旧価値観から、「わたし」は譲れないと、「みんな」の幻想が滅んでいく時代に。