さっきweb広告に「ネット騒然」というフレーズを見つけて思ったこと。かつての人間社会は家と町や村、あるいはその周辺という狭いエリアでの情報だけを(ほぼ)処理していれば良かったが、今はバーチャルエリアが拡大し、世界中からさまざまな情報が降ってくる。ニュースの大半は戦争やら災害やらのメンタルに悪いニュースばかりで、ひとつは僕らはかつてよりもメンタル的にヘビーな日々を送っているから健全さを取り戻すにはニュースから距離を置いたほうが良いし、報道側も自分たちがやっていること(正義感を振りかざして熱心に報道するほど僕らは壊れていく)をもっと自覚したほうがいい。もうひとつは、膨大な情報処理を求められる僕ら受け手側はこの「ネット騒然」に見られる末梢神経反応的な情報処理は1つ1つがあまりに些末で無意味な行為なので、もうそういうことから距離を置いたほうが心穏やかで生産的で有意義な暮らしが過ごせるのではないかということ。
航空機ペット問題と日本社会
航空機ペット問題についての所見を整理しておく。複数の芸能人らに対しだいぶ感情的な批判コメントが殺到しているようだが(詳細に読んだわけではない)、何故そうした騒動となるかについて。
すでに、
変わることへの拒否感か。変わらないこと、日々の暮らしや考え方を変えず維持することを第一とする価値観か。それも大事だけど、ガラパゴス化の根幹思想。伝統重視の日本社会だからか。[link]
と書き、続けて、
日本社会では革命は起きない。良くも悪くも。何かをしようとすると叩かれる一方、伝統を守り続ける姿は称賛される社会。何に起因するのか。未熟な市民社会とか、そんなんじゃないはずだ。[link]
と書いた。
「変わらない」至上主義の日本社会では、今日も明日も「昨日と同じ僕」でいいので、自己肯定感が強い社会と言えるはずだが、現実の日本社会はむしろ自己肯定感を消耗する社会となっている気がする。
たとえばそれは、自己肯定感を前提にした長時間労働などの無茶ぶりが横行しているからではないか、とか。
では一体そのルーツは日本の歴史のどこにどう起因しているか、とか。
なお、元の航空機ペット問題については既に、
この問題、動物虐待などについての世界的な潮流を考えると、ペットを荷物として扱うこともペットを避難させないことも、いずれアウトになるのでは。また本来そうあるべきでは。[link]
と書いた。
平和は「安定した豊かさ」がもたらす。
平和はもちろん尊いものだが、ただ平和、平和と言っていれば平和が保てるわけではないということを終戦記念日の今日書いておく。
戦争を起こさないためには、安定した豊かさが必要だ。それも自国のみならず、理想的には世界中に。
かつての日本が(結果的にしろ、意図的にしろ)戦争への道へと進んだのは、ひとつには貧しかったからだ。日本陸軍が暴走して戦争を起こしたわけではない。それを支持する、多くの貧しい国民がいたからだ。
もうひとつは、日本社会が不安定だったからだ。江戸時代それなりに安定していた日本社会は、明治維新以降は激動した。不安定な社会は人々を不安にさせる。
いまの日本社会はどうだろう。そこそこ安定した豊かさと言えるだろうか。僕はそうは思わない。下手をするとまた戦争へと転げ落ちるリスクを抱えているのではないだろうか。
(仮説)先の大戦は日本人にとって「豊かさを目指した戦争」だった。
タイトルどおりなんだけど。当時多くの一般国民は貧しく、より物質的豊かさを求めたことが戦争への根本的原動力となった、のではなかったか。となると、戦後の農地改革から高度経済成長へと至る道はまさしくその延長にあり、物質的豊かさは獲得できた。が、それで日本人は幸せになったのだろうか。戦時期からの他律盲従的価値観が続くうちは本当の豊かさに辿り着けないのではないか。